ハピネス

 ただ2人きりの時間を過ごすことが、こんなにも幸せだなんて思っていなかった。
 幸せは今までにもいくらでも、本当にいくらでもあったから。
 その都度至上の幸福という名をつけたかったから。
 それでも、今日この時、この場所で。
 痛いぐらいの幸せをれるあなたに、同じ幸せが降りますように。



 柔らかく零れる光が、やけに温かい。

「やっぱり大きいね」

 群青色のような闇の中で揺れるそれは、月明かりを受けて少しだけ青白く見えた。
 英二にとっては見慣れた白のカッターシャツも、の身体を包み込もうとするにはやはり大きかった。袖口からちらちらと見え隠れする白い指先、頼りなさそうに大腿を掠めるその着丈から伸ばされる素足に、英二はただ笑みを零し、後ろからそっと抱きしめる。
 抱きしめた細身の身体から漂う匂いに、嬉しさのせいで心の底から締め付けられてしまうような感覚に襲われながら。

「そんな格好のままだと冷えるよ」
「平気だよ? まだ熱いから」
「湯冷めしやすいくせによく言うよ」
「そうしたら、英二が暖めてくれるんでしょ?」

 振り返ったその顔に浮かべられた、口端をわずかにあげるような挑発的な笑み。
 英二はつられて少しだけ笑いながら、冷たさを伴うようになっていた濡れたままの髪に顔をうずめる。いつもは傍にあって懐かしさじみたものを感じさせる香りも、やはり今日ばかりは違うものに負けていた。

の匂いがしない」
「なに?髪の毛?」
「そう。俺ん家のシャンプーの匂いだ」
「英二のお姉さんが好きなシトラスのね」
「……なんか、妙な気分」
「今更だよ、英二」

 抱きしめたまま離そうとしないことに対してか、それとも顔を髪にうずめたまま話すことに対してか、それはわからなかったけれど。
 ただ腕の中で苦笑するを、英二は笑ってもう一度抱きしめた。

 この身体を抱きしめられるようになって大分立つ。
 初めて出逢った頃はこんなことを想像する余裕すらなくて、むしろ今まで抱いたことのないほどの片想いの重さに躍起になって必死になって、もがいて、一時は自己嫌悪から諦めようとしたけれど。
 けれど、あの時この想いを捨てなくてよかったと今となっては心から思うことができる。

「今日は、雲がないから。星も見えそうだよね」

 2段ベッドの下段、少しだけ圧迫感があるその場所で。は英二に抱きしめられたまま窓の向こうを眺めて呟く。その歌うような声につられて英二はそっと顔をあげ、の肩越しに同じ方向を見つめた。

 電気を消した日付が変わる直前の部屋。頼るものは月明かりだけと、わざとカーテンを開け放って零れ落ちるような月光のみを拾い集めての細い身体の輪郭に目を向ける。薄い窓ガラスの向こうには染み込むような深い藍色をした空があって、雲もなくて空気も澄んでいるこの時期のおかげか微かな星光もチラチラと揺れ輝いていた。

 同じ夜空なら、英二は何度も見たことがあるけれど。
 けれど、今この時と同じ気持ちで見られたことは一度もなかった。

「ねえ、英二」
「なに?」

 さらりと髪が英二の頬をかすめ、がわずかに振り返る。体操座りをしたままのその身体はもはやほとんど英二に預けられていると言っても過言ではなかった。 

「また伸びたね」
「え?」
「身長。また少し大きくなった」

 わずかに冷え始めた指先が英二の頬を撫で、濡れた髪を梳き、そして頭を撫でる。
 身をわずかにひねらせて、そして大きなカッターシャツからすらりと出てきた腕を伸ばして。英二の緩い拘束を嫌がるわけでもなく、わずかながら不自然な体勢になろうともは笑って英二の頭を撫でる。

「昔はね、私と一緒ぐらいだったんだよ。覚えてる?」

 そして囁く一言に、英二が頷かないはずはなかった。

「めちゃくちゃ昔の話じゃん、それ」
「違うよ、3年ぐらい前だよ。まだそんなに昔じゃないよ」
「中1の頃なんて立派な昔の思い出だって」
「そう? 英二、まだ面影いっぱいあるんだけどなあ」

 微笑むにつられて英二も笑う。どうしたことか、とにかく笑みが止まらなかった。

 誰もやってこない部屋は、本当に。暖房なんて入れてなかったけれど、本当に暖かい。
 今日という日はさほど大切なわけでもなかった。言い換えれば他の日となんら変わらぬ平日と言ってもよかった。普通に学校に行き、普通に部活をして、そして家に帰ってくる。過ごした日中はいつもと全くと言っていいほど同じだったのに。

 なのに、どうして。
 どうして、明日という日を迎えるこの瞬間はとても特別な時間になるのだろう。

 身体を預けてくれる小さな恋人を抱きしめたまま、英二はその柔らかい頬に口を寄せてそっと瞳を閉じる。自問じみた謎かけに対して答えを出すまで、そう時間はかからなかった。
 愛しいという名の気持ちは、どうしてこうも嬉しさをくれるものなのだろうという。答えの代わりのように浮かんでくるその次の問いには、もう真面目に考える必要性を感じなかったけれど。それはあまりにも愚問すぎたから。

「初めて手を繋いだのは、いつだったか覚えてる?」

 頬にキスを受けたが微かに尋ねる。英二は笑いながら答える。

「それはつきあう前から」
「じゃあ、キスをしたのは?」
「中2の夏。大会前」
「こういう関係になっちゃったのは?」
「修学旅行中」
「不謹慎だったね、私たち」
「何を今更。同罪だから別に気にしない」

 お互い笑いあえる過去があることは、こうも心を温かくするものなのかと英二は思う。
 静かな夜は、本当に。ささいな会話ひとつに鼓膜が震えるだけで頬が緩んで、肌越しに伝わる心音の刻みひとつにこの腕の中にある大切な人の存在を実感できて。

 それが名前のつけられない幸福だと、そう気づくことはどれほど幸せなのだろう。
 かけがえのないものとして実感できる重みと温もり。この拘束したがる両腕を拒まない、そんな許容の姿勢の中に含まれている、自分を受けて入れてくれる感情、愛情。

 そんなに、どう感謝の気持ちを告げればいいのか。
 自分の幸せを、自分が今この時感じられる幸せをどうしたら伝えらるのか。
 いい言葉が見つけられず、英二はのうなじに唇を落としてそっと瞳を閉じる。結局はそうすることしかできない自分の言葉のなさに恥じらいすら感じたけれど。

 その時、の肩がぴくりと跳ねた。

「あ」

 ふとが顔をあげる。英二もつられて顔をあげる。
 の視線の先には、機械的に一定のリズムを刻みつづける壁時計があって。

「英二が生まれて、16回目の誕生日」

 暗闇の中で時計の針を確認するよりも前に、英二の腕の中にいたが小さく呟いた。そして小首を傾げるように振り返って。

「私が英二に逢ってから、4回目の記念日だ」

 振り返ったの顔は、本当に可愛くて。そんなありきたりな言葉なんかで表現したくないと思っても、それ以外に言葉が出てこないほどに心に溢れる想いの方に言葉がつまってしまって。

 愛しいと思う気持ちの限度を知りたいと、英二は心底思った。
 知らなければ、自分はいつまでこの人に溺れていくのか分からないと。そう思えばこそ。

「俺の誕生日は、にとっても『記念日』?」

 11月28日を迎えた、1年でたった24時間限りのこの日の始まりを共に迎えられた恋人にそっと尋ねる。
 もちろん、この場所で2人きりだからこそ。期待した答えというものはあるけれど。

「この日がなければ、私は幸せをもらえなかったよ」

 だから、記念日。
 そうストレートに答えるの言葉は、想像していたよりも胸に響く。
 
 28日を迎えた夜空は、より一層濃さをましていく。
 お風呂から出た直後はまだ熱を伴っていたお互いの身体も、暖房のついていないこの部屋ではもはや暖はお互いの温もりでとることしかできず、その熱自体が冷めつつある今となってはただ冷え込みを意識せざるをえないばかり。

 幸せという名の冠を、もしこの場でにあげられるとするならば。

「俺も」

 振り返るだけだったの身体をこちらに向かせ、わずかに覗く額にキスをする。
 キスをするだけならいくらでも。身体を重ねるだけならいくらでも。
 今まで付き合ってきた中で、そんなことは本当にいくらでも体験してきたけれど。

が好き」
「『も』? 私まだそんなこと言ってないよ」
「これから言うって知ってるから」
「なにそれ、どうしてそんなに偉そうなの、英二」

 今日という日を特別な日にしてくれた両親に感謝。
 今日という日を愛しい記念日にしてくれたに感謝。

 感謝という気持ちを恋愛感情とごちゃまぜにしてもいいのであれば、意味もなければ現実性もない、けれどそんな感情の量計算じみたことをしてもいいのであれば。
 きっと、今目の前にいてくれるを想う気持ちで心は満たされていて、他に何も言えない。言葉はどこか薄っぺらで、この気持ちを100%代弁してくれるものではない。

 それでも、この愛しい人に。
 今日というこの日を一緒に祝ってくれる人に、心からの感謝と強い想いとを。
 今言わなければきっと、どんなにささいな言葉でも、うまく表現できていない言葉でも、言葉として形に出したいという思いに素直にならないと、きっと後悔する。

 そう思い、英二はそっと額から唇を離す。その瞬間自分を見上げてくるの視線とぶつかり、英二は何かを言おうとしたけれど、結局お互いの目が合って笑ってしまえば焦る気持ちもなくなってしまった。

「冷えてきたな、身体」
「うん。寒い。暖めてよ」
「偉そうなのはどっちだよ」
「お互い様だから、いいの。ねえ?」

 笑ってそっと瞳を閉じる
 無防備とすら言ってもいいほどに、全てを見せてくれる恋人に。
 英二は泣きたいほどの嬉しさに胸がいっぱいにって、それでも涙を流すのは何か場違いな気がしてばれないように下唇を噛み締める。そして涙の波が去るのを待ってから、触れ合うだけのキスをした。

 幸せという思いは、結局言葉にすることもできないまま。
 けれど。

「おめでとう、英二」
「……ん?」

 小さく呟いたその声に反応して、鎖骨に口付けていた顔をそっと上げれば。

「私に一番最初に言わせてくれて、ありがとう」

 月明かりの逆光の中、少しだけ肩口をはだけながら。英二の手が無骨に滑らかな肌の上を通っていくのに無言の了解を示しながら呟いたの言葉に、結局は。

「……ずっるいなあ」
「え?」
「それ、卑怯だよ」

 英二は笑いながらの肩に顔を押し付ける。
 嬉しさと幸せで涙が出る、それほどの幸せはないと思うと、また涙が出た。



03/11/28