06.示された答え

「……お疲れ様、です」

 メールで伝えた約束の時間は午後5時半、場所は青春台駅前。
 どことなく気恥ずかしい感情に耐えかねて呟いた言葉に、は困ったように眉尻を下げる。それでも口元には心を落ち着かせてくれる笑みがあった。
 なにかが変わった、ということに気づいた時には、いつものように手を差し伸べていた。

「淑徳、どうだった?」
「あ、うん。すごかった、設備とかも充実しててさ。やっぱり高校にもなるとあれぐらいお金かけてくれるんだなーって思った」
「青学も十分立派な方だと思うけど」
「他の中学に比べたらの話だろ、それ。中学と高校じゃやっぱり違うよ」

 たわいないとも言える、けれどそれはいつもの雰囲気を伴った会話だった。
 違うことと言えば、言葉を交わすたびに胸のどこかがきしむこと。目を合わせて話すことができないこと。違和感を覚えずにはいられない、日常が恋しくならざるをえないその感覚をもてあましていると、がそっと口を開いた。

「話のしやすいところに行きたい」

 妙な緊張感に支配された空気の中に響く声。英二は黙る。やがて、頷いた。
 街は、きたるべき冬にむけて着々と準備を進めていた。冷たく吹きこむ秋風をただ受け入れるがままに、街路樹たちが物悲しい音をたてて揺れる。
 コートの上に立つ時には全く気にならない冷たさが、やけに身に沁みる。
 英二は制服の隙間から入り込んでくる冷気に顔をしかめ、思わず肩をすぼめた。

「……どこか、店に入る?」
「静かじゃないよ、お店の中なんて」
「でも外だと寒いし……」
「じゃ、私が決めてもいいかな」

 気づけば随分と高低差ができてしまった、見上げられる視線。
 かすかな笑みとともに向けられるその視線に思わず目を丸くすると、白い息がふわりと空気の中を漂い、そして。

「テニスコートにつれていって」

 3年という年月を経て耳に優しくなっていた声が、そんな言葉を紡ぎだしていた。





 青学のコートは桃城たち現役部員のものだった。コンテナの周辺は大石とのゴールデンペアとしての特別な場所だった。かといって有料のテニスコートを借りられるほど、財布の中身に余裕があるわけではない。
 なぜテニスコートが静かな場所になるのか、英二には分からなかった。英二にとってコートは動き回り音を立てる場所でありこそすれ、少なくとも話をするだけのために行くような場所ではなかった。だからいつもであれば間を置かずに怪訝な表情を浮かべただろう。
 しかし、なぜかと疑問に思う心はすぐに影を潜めた。英二はに確認を取らずに黙って歩を進める。そして会話のないまま、ある場所を目指した。途中に見た景色はどれも平面図のように薄っぺらで、なにも心に留まらなかった。

「夕方になると、すごく冷えるね。やっぱり高台にあるからかな」

 の口元はマフラーの中に隠れていた。くぐもった言葉は聞き取りにくい。それでも英二は尋ね返す言葉を見つけられなかった。いつもどおりを演じることはできなかった。
 視界の中に映るのは、今目の前で佇むの後姿と。そして真白のウェアに身を包み、ラケットをもった不二の姿。
 そこは、ストリートテニスコート。
 つい先日不二と試合をして「結論」を出したこの場所に、まさかその結論を一番聞かせなければならない人を連れてくることになるとは、英二は思ってもみなかった。

「……ここでよかった?」
「うん、十分。確かに誰もいないしね」

 白のダッフルコートを着た小さな背中に尋ねると、苦笑しながらがそう答える。その言葉の通り、ストリートテニスコートには英二と以外の誰もいなかった。どちらかが言葉を口にしない限り、周りには沈黙しか生まれない。
 英二は黙ったままの様子を見つめる。が手袋をしていない指先でそっとネットをなぞればそれは頼りなさそうに揺れ、コートの感触を確かめるように歩けば革靴とコートとの違和感に英二が思わず声を出しそうになる。沈黙の中に生まれ落ちてくるその小さな行動のひとつひとつは、これからのなにかに対する前準備のようにすら見えた。
 そして、今からなにが始まるのか。英二は分かっていた。
 分かっているからこそ、口を開くことにかつてないためらいを持った。

(……どこまで読んでるのかな、は)

 テニスコート中央、ダッフルコートの下で紺のプリーツスカートが揺れる。自分がコートの外からその姿を見つめるなど、慣れない光景だった。
 今がなにを考えているのか、英二には分からなかった。そしてその表情は風に遊ばれる髪に隠れて見ることも叶わなかった。

(……それで、俺はどこまで言う気なのか。どういう気持ちで言う気なのか)

 決めたはずの心は、まだ揺れていた。伝える決意にではなく、伝えた後の対処法が見つけられないがゆえに。
 オレンジ色がこれほどまで痛いと思ったことはない。そんな夕陽のまがまがしさに目を背けながら、秋風に促されるがままに英二は山裾の街並に視線を移す。日曜日に見た白にも近い清らかな朝陽に包まれる光景とはまた違う、夕陽のオレンジ色に支配された今の光景はどこか懐かしく、そしてどこか悲しかった。

「英二」

 その時、が小さくその名を呼んだ。
 ポケットに手を入れたまま英二は振り返る。視界の中央で、は笑っていた。

「話、しようか」

 息を飲む。それだけで、十分だった。
 沈黙の中でその言葉をかみ締め、意味を十分に理解した後になって、ようやく英二はまたもに先の言葉を言わせてしまったことに気づく。そんな自分を情けなく思いながらも頷き、そして。口を開いた。

「……俺」
「うん」
「俺、ちゃんと考えたから」

 後先は考えられなかった。ただ会話の流れを決める、その一言を口にした。
 その一瞬、の肩は小さく震えた。その態度を見て、今から自分が口にする言葉はを悲しませるもの以外のなにものでもないことを英二は確信する。いや、元よりそれは分かっているはずだった。しかし実際にその反応を言葉はなくとも態度で示され、そしてその反応を見て心なしか動揺してしまう自分がいることを英二は否定できない。
 そして、もうひとつの事実に気づいてしまえば。いつの間に自分の言葉はそれほどまでの役割を担うようになっていたのか、なんて。あまりの皮肉に自嘲せずにはいられなかった。

『しばらく、距離おこうか』

 思い出すだけで胸が裂けそうになるあの言葉。
 あの日、今日と同じ色の夕陽を見ながら。川面のきらめく様子を見つめながら伝えられた言葉を思い出しながら。どのような結論も否定しないと暗に伝えてきたあの時のを思い出しながら。英二はわずかに目を伏せる。

(……やっぱり、全部分かってたんだな。なにが答えになるかなんて)

 は口をはさまなかった。ただ黙って英二の次の言葉を待っていた。
 優しすぎる、甘すぎる従順さに英二は眉根を寄せる。訝る感情からではなかった。なにもかも先に見通して先にひとりで苦しんでいた、をそうさせてしまった自分に対して、むしょうに腹が立った。

(……いくら分かっていても。不二に言われたことが正しいって分かっていても、でも)

 自分は、に対してなにができるのだろうか。沈黙の中、ひとり心の中で思う。
 自分のテニスとは別の問題だと、同じレベルで考えるのは失礼なことだと分かっていても、それでもそのことを考えてしまう自分は愚かだと本人に笑われるだろうか。そんなことを思いながら、けれど。

「俺、淑徳の推薦受けることにした」

 口にした決意は、今更揺らぐものではなかった。

「俺、高校に進んでからもきちんとテニスをしたい。テニスをするだけなら青学でもできないことじゃないけど、でも上に進んでも、手塚たちはいない。今のメンバーじゃ続けられない。新しいメンバーと一緒にやれなくも……ないけど、でも、俺にとって青学っていうのは不二や乾とか、手塚とか。今のレギュラーたちとのものだから」
「うん」
「……それに、俺、淑徳に認められたの。めちゃくちゃ嬉しかった。正直、自分の相手をしてくれた大石のことも一瞬忘れるぐらい、すっごい嬉しかった」
「……うん」
「俺、自分がダブルス向きだってことは分かってる。シングルスを諦めたわけじゃない、でもそれで団体戦でチームに貢献できる、勝てる可能性が高くなる。俺のテニスにそんな価値があるっていうのは、青学のレギュラーになってみて十分分かった。だから」
「……」
「ダブルスの力を正当に評価してくれる学校が、青学よりも強い淑徳がダブルス要員として俺を迎えてくれるっていうなら、俺はそれを受けて、きちんと自分に与えられた仕事をこなしたいと思う。そこで、もっと強いテニスをしたいと思う」

 息継ぎの仕方は分からなくなっていた。
 言い切った。今なにを考えればいいのか、どのうよに考えればいいのか分からなくなるぐらいに。ひとつのことを成し終えた感覚に、指先は軽い痺れを覚えていた。
 少しの距離を置いて佇んでいたは、しばしの沈黙の後そっと目を伏せた。睫毛が震えているのを英二は見逃さなかった。緩く組まれていた指先にたった一瞬だけ力が込められたことも、すべて見逃すことはできなかった。
 それでも英二は視線を逸らさなかった。逸らしたくなかった。
 頬にぶつかる風は、秋に吹く風は。テニスをしないで立つテニスコートに吹く風は、こんなにも冷たいものだっただろうか。沈黙はこれほどまでに痛みしか生み出さないものだっただろうか。心に降り積もる吐き気にも似た気持ち悪さばかりが大きくなる。
 その時、が顔をあげた。涙は、なかった。

「もう、決めた? 絶対に変わらない?」

 小さな笑みすら浮かべながら尋ねる。英二は困惑を隠すことができない。

「え? あ、う、うん……」
「そう。……じゃあ、いいか。いいよね」

 それはあまりにも拍子抜けする、抑揚のない声。風に消されてしまいそうな弱々しい声。
 反応を完璧に予想していたわけではない。しかし何らかのアクションがあると見通していた身体は、のそんな言葉に一気に弛緩する。
 緊張は、ない。けれど先は恐ろしいほどにまったく見えなくなっていた。

「……?」
「ちょっと待って」

 空間の頼りなさに英二が思わず声をかければ、小さくとも意思の強い声がそれを拒む。
 は、明らかに言葉を探していた。なにを探しているのかは分からなかったが、視線が動揺とは別の意味でゆっくりと動いているのが分かる。英二は待つよりほかなかった。
 頬をさする髪をそっと左手で押さえ、そしてはようやく口を開いた。

「じゃあ、今から私が言うことは全部適当に聞き流してね。反応は一切いらないから」
「え?」
「でも私にも言う権利はあると思うの。というか、言わせて。もうこのあたりにたまって仕方なかったから」

 人差し指が胸のあたりに丸い円を描く。英二はただ黙って頷くことしかできなかった。
 今からなにが始まるのか。心の中にあったのは、名前の付けられない分類不可な焦燥感。けれどその焦燥によってもかき消されることのなかったものは、ひとつだけ予想できていた言葉。

「私は、正直なところ。英二と一緒に高等部に進学したかった」

 そして、その言葉を。
 心のどこかで予想していたその言葉を、現実として黙って受け入れるしかなかった。



>>07.伝えたかった言葉


05/02/04