| シンシア |
その瞳が閉じる瞬間を知っているのは自分だけ。 何の不安を知ることもなくその瞳が閉じられるのは、この腕の中だけ。 けして油断が多いわけではないと、それは英二も知っている。 けれどこんなに無防備な面があるという事実を教えられているのが自分だけだということも、僭越ながら英二は知っている。 「寝るな、こら。。……?」 腕の中の温もりに呟いても、もはや何の反応も返ってこない。肌越しに伝わる心音とともにただ規則的な寝息をもらすだけとなっているその相手に、英二は小さくため息をついた。 「しょうがないなあ……」 丸まった肩を撫で、崩れ落ちないようにそっと抱きなおす。珍しく熟睡してしまっているを、とりあえずのところ英二はそのままにしておくことにした。 秋の夕日が沈みかける橙色の部屋。 そこはいつもと違う場所だった。確かに英二の家の中ではあったけれど、けれどそこはいつも安寧を得られる英二の部屋ではなく、開放的ではあってもいつ人が戻ってくるともしれぬリビングだった。 冷え始める秋風がカーテンを揺らしながらわずかに部屋の中に流れ込んでくる。秋は目前とは言っても日中はいまだ暑さを残していたこの日、夏の制服を着ていた英二は思わず肌が震え、を抱きしめる。 ソファの上、テレビも電気もつけない薄暗くて無音の空間の中。英二は眠りに落ちてしまったをその腕の中に収めたままで赤く染まっていく空を見つめるしかなかった。 ソファに寝転がるようにしつつも、辛うじて英二の腕の中に収まり、もたれかかることによって上半身を起していられる、そんな状態のを見るのは久しぶりだった。 (疲れてんのかな……そうだよな、疲れてるよな) ソファの肘掛部分にもたれ、脱力状態のを受け止めながら英二は指での髪を梳く。不自然な体勢だというのに、さらには不躾にも身体の一部を触られているというのにそれでも起きないのは、なにより深い眠りについている証拠。 文化祭を11月に控えた今、のもとには様々な理由がつけられた雑用が舞い込む。部活を引退しなにかと暇を持て余すようになっていた英二とは確かに対極的だった。 そういえば、なんて頭の中で記憶を呼び戻してみれば。 『なにそれ。なにダンボールなんかもってんの?』 『文化祭で使うやつ。さっきそこの電気屋さんに行って余ってるのもらってきたんだ』 『電気屋? みんながもってきたやつだけじゃ足りなかったの?』 『微妙なところかな。でも失敗もするだろうから、余分があって損しないでしょ?』 『ふーん……俺、持とうか?』 『平気、階段のところまで持っていけばいいだけだから』 教室での何気ない会話だったけれど、今思えばどうして女子に力仕事なんて任せっきりだったんだろうかとか反省しないわけにはいかなくて。 『英二、どこか行くの?』 『あー、うん。コート。桃たちの練習に付き合う約束してる』 『引退したのに?』 『俺たちの方が弱点知り尽くしてるからさ。新人戦前だから1年の様子も見たいし』 『じゃあお昼ご飯だけじゃ足りないでしょ。はい、これ』 『……なにこれ』 『誰かさんのための差し入れ』 何も言ってなくても、差し入れという名目でおにぎりを作ってきてくれたりする優しさに依存しつづけるのは、本当はいけないことで。それが好意からくるものだという程度の認識では許されるはずがなくて。 時折、この細い身体を抱きしめながら一体自分はいくらの負担をかけさせているのか、思わないわけではない。英二は小さく息を吐く。 自分が守りたいと思えば思うほど、この腕の中の恋人は負担にならないようにならないようにという心がけをしている事実を知らないわけでもない。 いつまでたっても、自分はこの人の上にたどり着けない。そう思わないわけでもない。 久々に予告なく眠りに陥ってしまったの頭を撫でながら、英二はそっとその柔らかい髪に唇を落とした。 「おやすみ」 外気に触れる腕にそっと手を伸ばしながら、そして抱きしめながら。 口元を緩めながら耳元でそっと呟くと、どこか覚えのある香りがしてふと目を止めた。 それは、英二がつい先ほどキスをひとつだけ落としたの髪。 さすがに長くつきあっているとちょっとした変化にもひとつひとつすぐに気づいてしまうほどになってしまい、掌から流れ落ちていく髪から香るシャンプーの匂いに思わず目を細める。 (俺がこの前好きだって言ったやつだ) 何気ない会話の中で交わされた、何気ない応答。たったそれだけの言葉ひとつひとつに反応してくれる恋人を、嬉しさよりも感謝に似た気持ちで英二はを抱き寄せる。 この人は、いつになったら自分を落ち着かせてくれるのか。 中学3年生という年齢において交際期間が1年以上に及ぶというのは、少なからず大きな意味をもつ。ましてや英二にとっては絶対の存在で、中学生活を語るにおいては欠かすことのできない人だった。テニスが至上のものであると自負はしていても、それでもの存在に触れないでおくというのは無意味でありなによりも不可能だと自分自身が痛感していた。 恋人が人生で一番の存在だとは思わないけれど。 恋愛が生活の全てだとも思わないけれど。 けれど、この人が相手ならそんな陶酔的な考えにはまってもいいと思えてしまうこの現実は、どれほどの重症程度を示してくれているのだろうか。 「……なー、。よく俺なんかと付き合ってこれたよね、今まで」 小さく呟くと、少しだけ睫が揺れた。聞こえてはいないはずなのに、むしろ偶然のはずなのにそんなちょっとした反応にすら平穏を感じる自分がいるのを英二は隠せない。 少なからず子どもじみたところと我がままじみたところと。 そんな、けして大人とはいえない部分をいまだ成長させきれない状態で持ち合わせている自分というものは英二自身がよく知っている。 そして、がそんな自分とはつりあわないんじゃないかと思えるほどの冷静さやおとなしさをもっていることも知っている。なぜならは恋人であり、自分にとって異性では一番の存在であり、なによりの中学生活における3年間の成長記録を誰よりも詳しく知っていたいという思いを抱きつづけてきていたのが他ならぬ英二であるから。 恋人同士といっても所詮は片想いの延長線上。 あの時抱いた恋心と、なにが変わったわけでもない。 「俺が今に片想いしてる男だったら、多分……俺みたいな男と付き合ってるの、絶対許せないと思うんだよな。俺、たいして男らしいわけでもないし」 好きな存在であればあるほど、相手を理想化することは止められない。 特に男から見れば、女はその早熟さがまるで自分たちとは同じ年月を刻んだ人間だと思うことのできない理由のひとつに成り果ててしまっていたりするけれど。 「は、俺からすれば確かにちょっと遠い」 徐々に落ちていく身体を止めようと、肘掛にもたれていた上体を軽く起して英二は今一度を抱きしめる。 「俺がに勝てるのって、スポーツぐらいじゃん。俺がに教えられるのは、テニスだけじゃん。……それに、俺の方が甘えてる。の方が色々大変だってこと、わかってるのに」 いまだ眠りつづける恋人に呟く言葉はすべて薄闇の中へと消えていく。 東の空が段々と濃い藍色を醸し出すような頃、それは見えない地平線の向こうに夕陽が沈みかけ、西の空に水色、白桃色、そして橙色のグラデーションをつくりあげる時。 こんな空を見るのは珍しいことではない。2人で見ることもさして特別扱いする程度のものでもない。 ただ英二は、自分の中で確実に心音とともに寝息を伝えてくれているを抱きしめたまま、そっと頬にかかった髪の毛を指でどかした。 「……本当、そんな男とさ。1年以上もよく付き合ってくれたよね」 この距離で、この感覚を味わえる人間は自分しかいない。 この静かな空間で、この寝顔を見てもいいと許しを得ているのは自分しかいない。 その特権が示す事実だけに縋るような気持ちは少し情けなくも、惨めでもあったけれど、けれどそれを手離すことができないのもまた事実であるということを英二は知っているからこそ、思わず寝顔を見ると笑みが零れて仕方なかった。 「でも俺、世間一般ではわがままで通ってるから。わきまえなんて全然よくないから」 所詮、両想いになっているからといって、片想いの時に抱いていた気持ちが変わったわけではないのだから。恋焦がれた感情は、増長の一歩を辿るしかないのだから。 だから結局、こんな言葉しか言えないのだと英二は今日も思う。 「だから、もうしばらくは俺の彼女でいて」 頬をくすぐるような柔らかい髪の中に顔をうずめて呟く。支えかのように自分の腕にかけられていたの細指をそっと握り、冷えてしまった掌にそっとキスをして。 日に日に我がままになる感情を弄ぶしかないこの年齢に、そして同時に相変わらず変わる気配すらないこの感情に苦笑しながら。 「……ん」 その時、が一瞬だけ眉根をしかめて目をこする。ようやく人の声が耳に届くほどの浅い眠りにまで戻ってきてらしく、英二はの目が完全に開くまでのゆっくりとした時間をただ口元に笑みを零しながら見つめる。 こんな無防備な姿を見ていられるのは自分だけだと分かっているからこそ。 そして相変わらず、自分はを好きで仕方ないからこそ。 他の男に負ける気にも、この腕をほどく気にもなれないのだと痛感しながら。 (絶対、これだけは譲れるもんか) かすかに震えて目覚めようとするを抱き寄せて、英二は耳元でそっと呟いた。 「おはよう」 「……英二? あ、ごめん。寝ちゃった……」 「あ、だめ。動くの禁止」 腕の中から逃れでようとするの腕に手を伸ばし、英二は去りかける恋人の身体を再び自分の腕の中へとしまいこむ。ひきつけられた反動ではあっさりと元の体勢へと戻ってしまった。 「……どうして?」 少しだけ訝しげな上目遣いの視線に、英二は小さな喜びと嬉しさを抱きながら、額にそっと唇を寄せた。 「腕痺れたから、ご褒美ぐらいもらってもいいかなと思って」 にっと笑うと、は苦笑しつつも「ごめんね」とだけ答えた。 まさかそれが、自分の腕の中で安心してくれるに対する感謝の気持ちだなんて。 まだまだ恥ずかしくて口にすることができない自分と、いくら自分より人間的に出来てる部分が多いからといってもそんな本音にはまだ気づいていないと。 15歳という年齢は、実はこれからの時間がたくさんあることを教えてくれている。 願わくば、この愛しいと思う感情が恋人にとって大切なものとなるように。 1人で片想いしていた頃とは違う今、心からの想いがもたらしてくれる幸せをひとつでも増やしていこう。それが今の目標であることは、やはりしばらくは秘密だった。 |
| 03/10/08 |