| あの頃のままに、幸せを |
それは、ふとした一瞬。 花火の興奮と人気の多さの辟易と、それらが同居したままの感情を持て余していた時。 その中に飛び込んできたのは、たったの一言。 「英人、ここにおいで」 きょろきょろと周りを見渡していた子どもにかけられた声がした方に視線を向ければ、そこは自分の隣。ホームの待合室の中、全てがきちんと大人と呼べるものに変わってしまった英二の優しい目が見つめるのは、自分たちのたった1人の子ども。 まさか、その姿だけに心動かされたなんて。 いつまでたっても菊丸英二を見る目が変わらない事実に、は苦笑するしかなかった。 「ほら、見てみろ。新幹線だぞー」 その声はひどく優しくて、直接向けられたわけでもないのに思わず頬が緩む。 夜中にも関わらず明るい駅構内の人々の喧騒を何気なく見つめていたの目には、それはひどく優しい空間のように思えた。そこだけ周りとは違う、英人の動きや言葉の速さにあわせてゆっくりと流れるかけがえのない空間。 そこには、自分の脚の上に子どもを座らせる英二の姿。 は笑って子どもと話す英二の横顔を見つめながら、改めて自分たちの間に流れた年月というものを思い知る。楽しいものばかりとは言えない記憶も、こんな瞬間を味わうための道だったのだと思えばいくらでも温かい思い出へと変わってくれそうだった。 「あれ?」 「そうそう、あれ。新幹線。カッコいいだろー。ほら、バイバーイって」 夏祭りを終えたばかりの駅のホームは家族づれや若者たちでにぎわっていて、今が午後10時に近い時間であるということを簡単に忘れさせる。 英二の脚の上には、抱えられるようにしている2歳の子どもの姿。その無垢な瞳はちょっとした輝きをもって新幹線を見つめており、その様子を見てはふとおかしくなって苦笑する。 その姿に重なるのは、10年近く前の英二の姿。 耳が痛くなるという至極個人的な理由をタテマエに、テニス部の遠征試合で新幹線を利用することに愚痴を零して当時の部長の怒りを買ったことや、親友の不二たちに子どもだとさんざんにからかわれていたことや、それでも一度乗り込んでしまえば1番車内で元気だったりしたものだからますます部長のご機嫌が悪化したことや。 そんな、英二の「子ども」と呼ばれた姿が重なって見える事実には思わず苦笑する。 しかしそんなの様子に気づいて、少しばかり目の細くなった英二がむっと眉根を寄せた。 「おい英人、見ろ。ママ新幹線見て笑ってるぞ。言ってやれ言ってやれ」 「なにを?」 「新幹線は格好いいんだぞって」 「えー……」 「こら、なんだそれは」 「あれ、アヒルみたい」 「あはは!」 英人の言葉に、思わずは笑い声をあげる。実の息子に反抗され、挙句の果てにはその様を妻に笑われた英二はますます顔をむすっとさせてを見つめる。 そんな英二の姿は、駄々をこねる時の英人の様子とよく似ている。 そこに見えるのは英人との共通点というよりも、むしろ英人を介することによって心の中に再現される昔を彷彿とさせて仕方ない名残の数々だと気づいた時、はまた笑うしかなかった。 「、それは笑いすぎ」 「いや、だって。英人の言ってること私もそう思うから」 「ママも?」 「そうそう。アヒルさんだよね、あれ」 大きな父親の手に守られ、温もりのある場所を与えられている英人が笑うと、昔の英二を思い出させる。そんな英人を可愛がり、仕事から帰ってきても遊ぶ時間を削ることはない英二が笑うと、英人に継がれた繋がりが垣間見えて嬉しくなる。 子どもだとからかわれた昔の英二は姿を消したはずなのに、今はその腕の中。 「違うぞ英人、ほら、あっちの新幹線見てみろよ」 「え?」 「あっちの新幹線はアヒルじゃないぞー。ほら、あれは格好いいだろ!」 英二が指差す先には英人がアヒルと言い放った700系新幹線のその向こう、隣の車線のドクターイエロー。 青と白、というのが定番の新幹線の中に突如現れた黒と黄色の車体、しかも滅多に見ることができない幸運の象徴とも呼ばれる新幹線に、ただでさえ丸い英人の目がますます丸くなった。 「かっこいい!」 「な? ほら。もう発車するぞ。ほら、バイバイって」 素直な感動を示す英人に、英二はそっと頬を緩ませて頭を撫でる。小さな頭に大きな手という親子関係ならではのその違いに、はまた苦笑しながらただ2人の様子を見つめていた。 英二が子ども嫌いだとは思ってもいなかったけれど、好きだとも思っていなかった。正直なところ、結婚前までのの感想は端的に言えばそれに尽きた。もともと5人兄弟の末っ子で甘え上手、おまけに所属していたテニス部内にはかなり大人びた同級生がいたせいで英二の子どもっぽいところがたくさん露見していたが、それが菊丸英二という人間のキャラであり個性であるという認識のうえで成り立っているたくさんの人間関係と、自分自身との関係を思えば、個人としては別段気にするものでもなかった。 ただ、自分の子どもができるとなると話は別で。いくら大人になったとはいえ、身体つきも仕草も昔を思い起こさせるようなものはかなり減ってきて、残っているものは昔からの癖だけだったりしたはずなのに。 それなのに、とは目を細める。 「ねえパパ、あれのりたい」 「あれ? あれか、ちょっと待って……いやあれは、人の乗せられないんだよね」 「のりたい。のりたい!」 「わかったわかった、じゃあ英人がお化けが怖くなくなったらあれに乗ろう。な?」 意外に思うほどに子ども好きな英二と、昔の英二そのままの英人と。 出会ってから既に10年以上。は恋人同士という特別な時間を自分のために10年以上も割いてくれた英二に結局飽きることなどできず、結婚に至りそして英人を授かり。 彼を好きな人間が何人もいるという事実を知りながら、その事実の中で幸せをもらえる彼女という場所を手放すことなどできず、我がままで子どもだと周りからからかわれる英二に向かって何度も我がままを言い、子どもじみた嫉妬をしたりしたけれど。 そんな自分の記憶をたぐりよせればよせるほど、胸の中に去来するのは自分の前でだけ見せる英二の少しだけ大人びた笑い方。 あれを恋しいと思っていた頃に比べれば、今はそれがいつでも見られるほどに時間は流れていて。 そして、同時にあの頃を思い起こさせる笑顔も毎日見られる。 そんな満たされた時間と場所。それが今。 それが今の自分がいる場所だという事実に改めて喜びを感じながら、はそっと呟く。 「英二、そんなお金どこにあるの? というか家族旅行すら滅多に行ってないのに」 英二は英人の頭を撫でたままだったが、一瞬で横顔が凍ったことだけは確認できた。 「……が頑張って貯める」 「英二が頑張って働けば、私だって貯めてみせます」 「……! サラリーマンに安月給の文句を言うな、それは卑怯だ、卑怯すぎる」 腕の中の英人は英二に抱かれたまま、花火と新幹線の興奮が冷めてしまったのか既に瞼を閉じていた。目的の電車もまだこない、人気も少しずつ引きつつある待合室で、ようやく2人きりの会話になる。 「どっか節約生活しないと駄目なんだろうなあ、英人もいるし……学費も貯めないと」 「節約生活ねえ。じゃあ英二、テニスをどうにかする?」 「え」 「今うちの家計の中で1番大きいのは、英二がテニスにかけてるお金なんだよ実は」 心にもないけれど、と心の中で付け加えつつそっと尋ねる。 そして、視界の中に映った英二の神妙な顔つきに、思わず頬が緩む。 相変わらず、この人の中でテニスの存在は大きすぎるのだという事実。 そして、そんな英二がたまらなく愛しいという自分自身の事実。 それらを無視できるほど大人でもなければ、飲み込みがいいわけでもない。それも事実。 「……それは」 「嘘。嘘だよ」 言い訳すら言わない英二に、は少しだけ罪悪感を込めてそっと笑う。 やめられるはずがないくせに、そしてやめさせたいなんて思ってもいないことを知っているくせに。それでもためらいがちになるのは、やはりどこか昔のようにテニス一本に絞りきれない現状の生活のせいかと感じ、は少しだけ申し訳なくも思う。 もちろん、プロになれるほどの技量があったわけでもない。それは自身知っている。 ただ、テニスの世界で1番にはなれなくても、英二が1番楽しそうに輝いて見える瞬間はそのテニスをしている時だと、もはや中毒のように思い込んでしまっている身。抜け出すには10年間というつけおき期間がとても長すぎて。 だから、いつまでも続けてほしいというのがの本音。それが、10年経った今の事実。 そんな本音をもたせてしまったのは、まぎれもなく目の前の人物だと胸をはって言えるほど、明らかに自覚済みの中毒ではあったけれど。 「続けてよ、テニス。私は続けてほしいって思ってるよ」 「」 「それに、英人にテニス。教えるんでしょ? 父親が下手だと格好悪いよ、パパ」 ぽん、と肩を叩く。かすかな温もりの伝達に安心するのは相変わらずお互い様。 「……うん。ありがと」 英二は緩やかに笑って、浅く頷いてみせた。もそれを受けて笑って頷く。 それが自分の我がままと同じ意味をもった同定義の励ましと知ったら、英二は何と思うかわかったものではなかったけれど。 ただそれでも、優しく英人の頭を撫でるその手が父親の手だけではないことをは知っている。父親という役だけになりきれないということも知っている。 テニスから切り離してしまうのは、菊丸英二の人生にそぐわないと分かっている。 安堵した表情を浮かべて英人を見る英二を見て、は笑って呟いた。 「それに、不二くんからいくらか頂戴してるので英二は全然心配しなくていいです」 一瞬で固まる大きな手。一瞬で丸くなる少しだけ細くなった目。 けれど、その反応の仕方は相変わらずなことに昔と同じように笑いたいと思うのは、自分も変わっていない証拠と言ってもいいのだろうか。 甦るのは、その子どもらしい反応に幸せを感じた昔と同じ、そんなリアルな感覚。 「え。ちょ……なにそれ!」 「なにって……英二が青学メンバーとテニスする度、私不二くんからいっぱいもってるのよね。割引チケットとか招待券とか。お父さんとかお姉さんの仕事の関係でよくもらうんだって、でも余るらしくって。他にはー……河村くんからお寿司とか。大石くんなんて野菜くれるの、野菜。あ、この前なんか手塚くんがウィンブルドンのねー」 「ちょ、ちょっと待て。俺なんにももらってないのに!」 わざと指折りをして目の前で数えてみせると、英二の顔が途端昔ながらの丸い目を戻す。 その反応が楽しいから見せつけているなんて、知られたらきっともう絶対反応してくれないからいまだにはその本音を明かしてはいなかったけれど。 「皆がね、『菊丸英二の奥さんなんて絶対疲れると思う』って言ってくれるの。だから私だけ」 「!!」 「ごめんね、旦那様」 が微かに英二の顔を覗き込むように、そして英二が弱いとわかっているからこそ少しだけ上目遣いをしてそっと謝れば、相変わらず英二は10年間まったく同じ反応をしてみせる。 遠く、手の届かなくなったような過去はすべて消え去ってしまったものではなくて。 時々、こうして顔を見せる思い出との共鳴する瞬間に、どれほど心が嬉しさで満たされているかなんて、この人は気づいていないと思いながら。それでも自分が幸せを感じてしまうからこそ繰り返す所業でもあるけれど、とは自分自身に苦笑する。 そんなの言葉に、英二は英人を抱いたまま深くため息をついた。 「……俺、なんのためにテニスやってるんだか」 少しだけ伏せ目がちにすると、腕の中で眠りに落ちている英人の寝顔に少し重なる。身体的特徴だけじゃない、さりげない仕草と醸し出す雰囲気まで同じととらえてもおかしくないほどに似通った2人。 そこに、愛しい人の10年前に似た大切な人の10年後を夢見るのは母親の特権か。 それとも、長い年月を共にすることのできた彼女としての特権か。 は言いようのない幸福感を噛み締めながら、そっと囁く。 「英人のため、……と」 たとえそれが中毒のような麻痺した感覚のもとに生まれ出る感情だとしても。 それが今までの人生の支えであり、幸せの源であると確信する自分の気持ちを無視したくはない。 「私のため。だめ? 英二」 窺うようにそっと尋ねれば、英二は一瞬唖然とした顔をつながらも、それでもそっと笑い返した。 「……そうだね、そうだと思う」 その一言にこめられた意味はたくさんあったと思うけれど。 それでも、たったその一言に安心してしまう今の自分をつくった英二をは心からすごいと思う。 付き合いだした頃より随分としっかりしてしまった肩に頭を預け、英人の柔らかい頬を撫でると、かすかな寝声とともに訪れるのはその指を握る小さな手と、頭を撫でる大きな手。 幸せの数量計算なんてできないと知っていても、もし今計ることができるのであれば。 きっと、胸の内に満たされる幸福という名前の感情はあの頃の2倍以上。むしろ相乗効果ととらえてもおかしくないんじゃないかと思えるほどの、そんな幸せ。 は大きな手と小さな手からもらえる幸せに、少しばかり目が熱くなった。 「英人にテニス教えてさ。俺、一緒にやりたいのかもしれない」 「うん、そうだろうね」 「あとなー、をずーっと俺に惚れさせておくわけよ」 「……なにそれ」 「俺知ってるもんね、の反応が1番可愛いのって俺がテニスしてる時だってこと」 「……母親にむかって可愛いとか言わない。普通にテニスしてよ、もう」 「あはは、ごめんごめん」 本音をついてくる英二の言葉に、は目を合わせないでそう答えるだけで精一杯だった。 いつになつたらこの人にときめかなくなるのか、そんなこと分からないし分かりたくもない。 ただ願わくば、この幸せがきちんと大切な2人にも与えられているものでありますように。 そう思ってそっと瞳を閉じた瞬間、温かくて大きな手がもう一度頭を撫でた。 「ありがとな、。俺、かなり幸せ者」 英人の前では聞かせない、2人きりの時にしか聞かせてくれない昔ながらの声。 こちらこそ、と呟いて、はかすかに笑った。 お礼を言いたくなるほど幸せなのは私の方です、と付け加えて。 |
| 03/07/30 |