| 楽園サバイバル |
その楽園は私にとって戦場でした。 この世で一番警戒すべきは、テニス部レギュラー陣だと。心底思いました。 「おばちゃん、親子丼二つ!」 トレイをもって、私が厨房にいる食堂のおばさんにスパゲッティを頼もうとしたその瞬間。 後ろから飛んできた声に目の前のおばさんは勢いよく「はいよ!」と言い、そして私の横に突如現れたもう一つのトレイにぎょっとしている暇もなく出来たての親子丼が二つ、そのトレイと私のトレイの上に置かれてしまった。 青学の食堂はオーソドックスにチケット制だから、勿論私の右手の中にはスパゲッティ(しかも今日は月イチ限りのカルボナーラの日)のチケットがあった。それを出す時間すら削除され、その間に隣の人間は二枚のチケットをおばさんに渡した。 驚きのまま顔をあげようとすると、混雑した食堂の鉄則のようにどんどん先へ行けと列に促されて私はその流れのままにおばさんの前を離れる。親子丼の載ったトレイを持ったまま。 慌てて振り返れば、勿論そこには予想していた人物。 「あっち行こうぜ、」 満面の笑みを浮かべる私の彼氏がそこにいた。 「私はカルボナーラの気分だったの」 「明日にすればいいじゃん」 「食堂で食べるのは毎週水曜だけって決めてたのに……」 「じゃあ来週にすれば?」 「来週はカルボナーラの気分じゃないかもしれないでしょ?(しかも今日限定なのに!)」 「じゃあその気分になるまで待つ」 「無責任!」 目の前で親子丼を食べる彼氏に向かって、私は臆することなく毒を言い放った。何故ならこの程度の毒なら彼はまったくもって反応しないからだ。私に恋愛感情があるせいでこれが精一杯の毒だとわかっているかのように、テニス部で(とにかく色々な意味で)鍛えられている彼氏は馬の耳に念仏よろしくな風体でまったりと昼食の時間を楽しんでいた。 私はといえば、目の前に予想もしていなかった黄色い物体が現れてしまったせいで箸が一向に動かなかった。予定では、今この場で私は箸ではなくフォークを手にしているはずだったのに。 なのに、それなのに。私の気分を著しく害してくれた目の前の彼氏は。 「なに、食べないの? じゃあちょうだいよ」 なんて、しかも承諾も取らずに既に箸を向けた状態で言い放った(しかも笑顔付き)。 彼氏のことを考えれば、ここで私が取るべき行動はたくさんあった。人に箸を向けるなと教育してもよかったし、まったくもって私の感情を汲み取ってくれない(だって今日はカルボナーラの日だったのに……!)ことに対してもっと腹を立ててもよかったかもしれない。何故なら私は彼の教育者だからだ。 そう、目の前の彼氏は大人なようで子どもの菊丸英二。 その菊丸英二の彼女であるは彼の教育者。 そんな周りの定説を、今日という日は実行してもいいような気がした。 「……私のお昼ご飯を奪い取る気?」 英二の箸から逃れようとトレイごと自分の方へとひき、私はじっと英二を睨む。例え自分の腕の中にあるそれが私の愛するカルボナーラでないとしても、あと四十分後にはまた授業が始まると思えばここで栄養補給を逃すわけにはいかない。意を決して私は箸を取り、温かい親子丼の中に軽く突っ込み、そして胃へ収めた。 カルボナーラを予定していた私の胃は、予定外の和食の味に思わず驚いたけれど。 「誰があげるもんですか」 「なんだよ、カルボナーラの気分なんだろ?」 「それとこれとは別。じゃあ英二だってご飯抜きで授業受けてみなさいよ」 「なんで俺が。つーかそれは俺の金だ、ただ飯に文句を言うな」 「私の希望を踏みにじったんだからおごって当然です」 だって、私のポケットの中にはきちんとスパゲッティのチケットがあるのだから。今ごろはおばさんの手によってごみ箱へと連行され、その代わりに目の前に月イチ恒例のカルボナーラを運んでくれる予定だったチケットを私はきちんと持っていたのだから。 カルボナーラ一つで拗ねるのも恥ずかしいとも思ったけれど、しかしカルボナーラにありつけなかった悲しさと背に腹は代えられないという言葉ぴったりの今の空腹具合の寂しさに、ただ私は黙々と親子丼を食べ続けた。 そんな私のご機嫌斜め具合に、英二は何を思ったのかしばらく沈黙した後。 「じゃあ感謝するようにしてやる」 と言い放って、そして。 食堂のテーブルの上にあるソースを手にとり、私の目前でにやりと笑って掲げて見せた。 「……ちょっと、英二。何する気」 思わず親子丼の危機を感じ、私はさっき以上にトレイを寄せて尋ねる。 しかし英二は計画犯の笑みを浮かべたまま、ただ空いている左手で頬杖をついて。 「勿論、が俺に感謝するように」 「その右手がもっているものは何」 「何って、見たらわかるだろ?」 そして、本当に子悪魔のように笑って。 唖然とする私を気にもしないで、右手にもっていたソースをそのまま親子丼の上にかけた。 勿論その親子丼とは、私のもの。正確には英二がおごってくれたもの。 「……!」 悲鳴をあげる暇すらくれず、英二はご機嫌な様子でソースをかけ続ける。 「兄ちゃんに教えてもらったんだけどさ、うまいんだって」 「(どこが!)」 「午後って数学と体育だろー? もうめちゃめちゃきついじゃん。それを乗り越えるためには体力をつけるしかない、これ食べて体力つけろ」 英二は心底嬉しそうにそう言った。私はただ呆然としていた。 黄色い親子丼の上に描かれた黒い線。いびつな円形を描くようにしてかけられたソースは、たまねぎの上では微妙に滑り落ちているようにすら見えた。しかしどこをどう見てもそれは、柔らかい雰囲気を醸し出す親子丼とはあまりにミスマッチすぎる。 いや、そんなことはどうでもいい。親子丼とソースの関係なんてどうでもいい。 とにかく私は自分の食べかけの親子丼(勿論こっそり顔を出しかけていたご飯部分にも染み込んでしまったそれ……)が唐突に謎の食べ物へと変化したことに二の句が告げなくなかった。 そんな私の心境を知ってか知らずか、英二は微動だにできなくなった私の代わりに自分の箸で私の親子丼をすくい、(ここは食堂だっていうのに)「はいアーン」の仕草をした。 瞬間、私は固まった。 「ほら、。食べてみろって」 「いや、いい」 どこまで確信犯なのか分からない英二の笑顔と近くから聞こえる笑い声に、私はただぶんぶんと首を横に振る。しかし英二は引くということを知らない。 「絶対『ありがとう英二!』って言いたくなるから」 「嘘ばっかり!」 「嘘じゃねえって」 「英二の味覚に付き合えるわけないでしょ!」 絶対ありえない、ということは目の前の親子丼まがいのものを見れば確信できた。何故ならカルボナーラを望んでいたのに突然親子丼を渡され、空腹に耐え兼ねて渋々食べていた中でのこの出来事だったのだから。 しかし。無我の境地にでも入りたくなるような心境なのに、しかしここは食堂。 「お、英二と……さん。久しぶり」 「よー大石」 「英二、また親子丼にソースかけたの? 飽きないね」 「食に関しては不二にとやかく言われたくないね」 大衆食堂同然のここは、一学年12クラスを有するマンモス校青春学園中等部の生徒の愛用の地。騒然とし続けるその場所で、いくら込み合っているとはいえそれでも突然私の横と左斜め前には不二君と大石君があっさりと腰を下ろして。 「親子丼にソースか。なかなか渋い選択だな、英二」 「渋い? 渋いっていうのかこれ。乾のメシの方が渋いっつうの」 「あっ先輩! ちょっと先輩聞いて下さいよ、またあいつが我がまま言うんですよー」 「桃、いい加減恋愛相談するのやめろって」 トレイに和風定食と湯呑みを載せて現れた乾君は平然と英二の左隣(要するに私から見て右斜め前)に腰を下ろし、私の姿を見つけてじゃれた子犬のように話かける桃城君は何故か食堂に菓子パン袋という理解不能な姿でちゃっかり私の右隣に座り込み。 テニス部レギュラー5人に回りを囲まれた状態で、ただ私はソースのかかった親子丼を見つめていた。箸を手にしたまま、どうすることも出来なくてただ謎のお昼ご飯となったそれを見つめていた。 人気のあるテニス部レギュラー陣に囲まれるというのは、やっぱり青学女子ならば夢に描きたいようなパラダイス空間なのだろうけれど。 しかし、今の私は至福であろうこの時間と場所を満喫するには程遠い心理状況というものにやられていて。午後からの授業を乗り越えるためと我慢して食べていた親子丼にとにかく勝負を挑まれていて。 ちらり、目の前の席に座る英二に視線を向ければ。 「俺、これ好きなんだ」 だから食べようよ、と。まるで私が薬を飲みたくないと駄々をこねる子どものようにまた笑って説き伏せようとする。そんな英二らしくない英二の行動に大石君は「さん、食べてやって」と苦笑しながら保護者同然の言葉を言い(教育者は私じゃなかったのか)、乾君は「多分死なないとは思うよ」と眼鏡を光らせて嫌なことを言うし(もうなんなの、なんなのこの状況)、桃城君は「エージ先輩はじけすぎっすよ!」と豪快に笑いながらパンを食べ続け(所詮この子は目先のご飯の方が大事なんだわ……)。 そして我らが友、不二君に至っては。 「またクラスのネタになるよ」 と満面の笑みを浮かべてくれた。 私は平和にお昼ご飯を食べたかっただけだった。月イチ恒例のカルボナーラを食べたくて無理矢理今日を食堂の日にして、英二と別れて友人と食堂を訪れて。そんな私への些細な反抗だったのか親子丼をつきつけてきた英二に、私は空腹と親子丼一杯分のお金のことを考えてカルボナーラとさよならをして、とにかく平和にこのお昼放課を過ごしたいと。ただそれだけを望んでいたはずなのに。 (どうしてこの人たちって……!) この状況を楽しんでいるとしか思えない周りの男たちを、ただ私はひきつった笑いで受け止めることしか出来なかった。心の中はその愛想笑いのような(特に不二君。誰がなんと言おうと不二君)レギュラーの面々をどうにか処分したいと願ってしまったけれど、しかしここは昼食中の生徒でごった返す食堂。 つまり人目があるここでは、多勢に無勢という言葉がこの上なく相応しいわけで。 「ほらほら。ここで断わられると、俺とケンカしたってことになっちゃうんだよなー」 親子丼をのせた箸をちらつかせながら、英二はこっそりと呟く。 その一言に以心伝心の男共はまるで示し合わせたかのように反応して。 「駄目だ、駄目ださん。英二はさんとケンカすると本当にテンションがさがって試合で負け続けるんだ」 「ふむ。さんとケンカしたとなると、菊丸英二ファンが躍起になって英二を応援する確率がぐんと伸びるな」 「うわー、先輩ケンカしちゃうんですか? 受験生なのに結構きつくないっすか? それ」 「皆の言う通りだよね。僕もあまり被害を蒙りたくないんだけどな、学級委員さん」 最後の不二君の言葉は、本気で卑怯だと思いました。 被害者層の存在をちらつかせるのは本当に卑怯だと心底思いました。 そんな男たちが見つめる中で。英二がにやりと勝者の笑みを浮かべる中で。 「今日お金出したのは俺だったじゃん?」 という、300円余分に支払った彼氏の一言に私はついに屈服して。 とにかくもう、この居た堪れない空間から脱出したいと心底願って。 「自分で食べるわよ!」 と、握ったままの自分の箸でソースかけ親子丼を口にした。 一瞬親子丼の味が先行したものの、口の中ではソースがきっちり自己主張し出して。先に口の中に広がっていた卵やたまねぎや鶏肉やご飯の味全てに同化しようとソースが踏ん張り始めた頃には、もう既に眉根が寄った後だった。 私にとってはこれが精一杯の譲歩。午後の授業を考えて胃に何かを収めようと、周りからの圧力から逃れようと決心して謎のご飯を口に運んだというのに。 「あ、それじゃ英二は納得しないと思うよ」 なんてことをあっさり言うのは、勿論。彼以外にいるはずがなくて。 「ねえ英二?」 「不二の言う通り」 うちのクラスの厄介者二人組はとびきりの笑顔を私に向けた。 ……だから、ね。 私は本当に、ただ平和にお昼ご飯を食べたかっただけなのよ。 それなのに大衆の前で男子に囲まれて、さらにその上彼氏に脅迫されて。 「ちょ、ちょっと待って。私もう食べたから!」 「違うって、これ食べてよこれ。ほら口あけてー」 「やだ、絶対やだ!」 「往生際が悪いな、さん。彼氏の頼み事ぐらい聞いてもバチはあたらないと思うよ」 「さん、テニス部のために協力してくれないかな」 「それだけなら消化にも差し支えない。大丈夫だよ、さん」 「ワハハ! 先輩すっげえモテモテ!」 不二周助が格好いいなんて、金輪際思うものかと私は心に決めた。 大石秀一郎が青学の母だなんて絶対嘘だと思った。 乾貞治は単に実験が好きなデータ男だと誰かが呟いたことは本当だとも思った。 桃城武は、もう後輩とは思わないことにした。 (どうしてこうなるのよ! バカ英二!) とにかくその時、私は青学女子が夢見るパラダイスな世界で。 この世で一番憎むべきは、テニス部レギュラー陣だと。本当に思いました。 |
| 03/03/18 |