恋に盲目少年

 その日は何故か朝から悪寒の連続だった。年に一度の幸福な日、のはずだったのに。

「菊丸、グラウンド五周追加!」
「えーっ!」

 しかし振り返ったところでもう後の祭りだ。
 朝礼台の前で朝から眼鏡を光らせている手塚は、相変わらず容赦云々以前に同級生への厚い配慮というものが足りない。横を通り抜けていく大石や桃城は笑いながら背中を叩いて去っていき、乾は去り際に「特別な野菜汁を用意しておこう」と公然と言い放ち、更に隣を走っていた不二にいたっては、

「僕4組に用事があるから先に行くね」

 と笑顔で言い放って大石たちを追いかけていった。
 どうやら不二周助という男はこんな時も河村と仲の良さを見せつけたい、と見せかけて実は彼女に会いに行くと公言しているようなもので、男の友情なんて欠片程度にしか思ってないらしい。

「ちょっと待て、なんで俺だけなんだよ!」

 透き通るような朝空の下、少しだけスピードをあげて不二たちに追いつく。そこは大石、桃城、不二、乾という先程英二を笑い者として置いてけぼりにした集団であり、復讐の意味もこめて走りながら文句を言い続ける。
 何故なら手塚に怒声を飛ばされる寸前まで、英二の周りにはその四人がいた。朝から英二が他愛ない無駄話(あくまで手塚から見れば)を口にしていると不二と大石は笑い声をあげ、乾には「与太話としては面白い」と判定され、桃城には「いや俺もっと面白いネタがあるんですよ!」とギネスブックに載りそうなぐらい古典的なギャグをやられて一同大爆笑していたところだった。

「いや、主犯は英二だろ」
「なんで!」
「昨日一昨日に引き続き、無駄話をし出したのは英二だからな」
「乾だって笑ったじゃねえかよ!」
「いや、僕たちはきっと犠牲者だよ。……英二の野次馬根性の」
「不二ー!!」

 桃城は既に笑いの臨界点を超えて、笑い声をあげながら走るので精一杯。わざとらしいため息をついて横を通り抜けていく越前も相手にせず、延々と先輩の虐待に笑い声を発し続けた。
 そんなことをしているうちに四人はノルマの十周を走り終え、朝礼台前で英二を残して部室へと去っていく。あまりにもあっさりとしたその去り方に英二はただ苛立ちを募らせるばかりだが、手塚の眼鏡が光っている手前脱走することも反抗することもできない。

「くっそう手塚、覚えてろよー!」

 秀麗なテニス部部長の頬がひきつるのを見届けてから、英二は追加の五周の旅に出る。
 今日こそ手塚にボールをぶつけてやる、と決意してもやはり苛立ちは収まらなかった。



 今日は特別な日だ。平日であっても年に一度しかやってこない限定された日だ。
 なのに朝から手塚には嫌われ、挙句の果てには。

「……休み?」

 朝の会の始まる直前に教室に入ると、いつも笑顔で朝の挨拶をしてくれる彼女の姿がそこにはない。ただ主をなくした机だけがぽつんと教室の中に置いてある、その光景しか英二の視界には入ってこなかった。
 入口に立ち尽くしたまま呟くと、4組から戻ってきた不二が英二の背中を叩いて苦笑する。

さん風邪だって。しょうがないよね、最近寒いから」

 万能の欠席理由をあっさりと口にされて、信じないわけにもいかない。それでも今日ばかりは納得したくない。
 じっと不二を睨み据えると、「僕を睨んでも仕方ないのに」とため息まじりに呟かれて、さっさと自分の席へと向かってしまった。それが不二だと分かっているはずだったのに、こんな時にやられては怒りなのか虚脱感なのか、言い様のないそんな感情の処置をどうすればいいのか分からなくなる。

「誰に聞いたんだよ、不二」
「誰? またそんな愚問を」

 テニスバッグを机の上に置きながら尋ねると、振り返った不二は満面の笑みを浮かべていた。

「……あー、そうですか。はいはい、朝から俺を見放して彼女のもとに通う誰かは言うことが違いますねえ」

 朝のノルマ終了後、目の前の人間は自分を置いて彼女の元へと去っていったことを思い出して英二はふてくされる。何分不二の彼女はの友人で、そして何より不二はおかしいぐらいに彼女一筋だった。
 本当は誰よりもそれをアピールしたいのは自分なのに、と英二は乱暴に椅子をひいてどさりと音を立てて座る。自然と尖った唇にクラスメイトたちが笑って反応してくるが、さすがの英二も今日ばかりはサービス精神を示すことは出来なかった。
 とにかく、今日は11月28日なのだ。
 唯一自分の我がままが、ほんの少しだけ許してもらえる日なのだ。そんな日に限っては学校を休んでこの場にいなくて、目にすることすらかなわない。
 教室での楽しみが半減どころかほとんどというか、とにかくなくなった。



 誕生日だからといって、別に周りの何が特別だというわけでもない。

「英二、今日は練習少し延ばそうか。親善試合も近いしさ」

 おめでとうの一言の後にはきちんと相方にそんなことを言われ。

「英二、大会終わってからストレッチの量減ってるだろ。練習後きちんとやっておけよ」

 今日に限って手を抜いているのが見つかってしまって、逆光の中の乾にそんなことを言われ。

「そういや今日って英二先輩が日誌当番ですよね? はいこれっ、任せました!」

 挙句の果てには笑顔で後輩には雑用を任され。
 自然と寄ってしまう眉根もそのままに、英二はふてくされた顔でテニスコートを見つめる。
 どうして今日に限って、という言葉を何度口にすれば気がおさまるのか、もはや自分でも分からなくなってきている。それは結局教室の中の話だけではなく、テニスコートに来ても全く変わらなかった。その分に会いたいという想いばかりがますます強くなっていくのに、解決手段が一つもないうえに周囲はまるで自分を慮らない。自分を慰める要素が何一つない平日となってしまった今日という日に、英二はやる気をなくしてベンチに腰かけたまま、日誌を開いたまま天を仰いだ。
 今日は、特別な日のはずだった。
 それはたとえ自分にとってだけだとしても、はそう言う自分の我がままを許してくれる日だと勝手に思い込んでいた。
 去年の誕生日は、学校帰りに二人で一緒に公園に行った。手を繋いで、風に飛びそうになるマフラーを笑いながら押さえあったりして。凍えそうになる手をお揃いでコンビニで買った温かいミルクティーの缶で熱を補って、他愛ない会話をして。
 特に何をしたわけでもない。ただ二人で平日にデートをするという、それだけでもとても恵まれたものだと感じることができた。だから今年もそれを、出来るものと願ってやまなかったのに。

「……なんで今日に限って休むんだよ」

 一度も震えない携帯が何を意味しているのかなんて、もう考えるのも億劫だった。忘れていたと言われたら立つ瀬もない。ただ部活がもうすぐ終わるこの時間になって受け入れなければならない現実は、今年の誕生日は一人で帰らなくてはならないということ。誕生日プレゼントがもらえないなどという子供じみたものではなく、冷たい手をどうにも温められないまま家に帰らなければならないということ。
 朝の手塚に対する復讐決意表明など、もはや頭のどこにも残っていなかった。ただがいないことの空しさばかりに周囲のちょっかいも面倒にすら感じて、コートに立ってもいまいち腕の振りがよくなかった。

「先輩、ふざけてるんすか?」

 相手コートにいた越前が笑いを隠した不機嫌な顔で尋ねてきても、英二は曖昧な返事をするばかりであっさりと1年生に1ゲームを譲った。

(なんて単純なんだよ、俺)

 が風邪で休むこと自体は、珍しいことではない。携帯にメールがこないことだって何度もあった(あまりに酷すぎて翌日にならないと現状報告が届かない)。
 ただ、今日が自分の誕生日で。
 寂しくてまともにテニスも出来ないぐらい、とにかくがいないとやっていけなくて。
 そこまで思うと、結局自分は誕生日を楽しみにしていたのではなくて、と普通に過ごせる日だから誕生日が待ち遠しかったのだとか、そんなとても単純なことを考えていたんだと思い知らされる。

「あー、俺って馬鹿!」

 呆れつつもサーブを打とうとした越前が珍しくフォルトをしてしまうぐらいの大声で叫ぶと、次のボールは精一杯の力を込めて打ち返す。勿論あの越前だから不意打ちにも瞬間的に反応してボールは打ち返されるのだが、英二は苛立ちに任せて再度打ち返した。
 さすがに勢いだけはあって見事な音が響くものの、それは明らかに。

「……ダブルスじゃないんすけど、今」

 シングルスコートから外れたところに落ちたボールは、そのままガシャンという音を立ててフェンスにぶつかる。自主練習の時間だということを思い出してしまうと、乾汁も日誌も放棄する覚悟はあっさりと出来上がってしまった。
 英二は踵を返し、ラケットを持ったままコートの出口へと向かう。越前はただ目を丸くしているだけだったが、さすがにそんな乱暴な行為に目くじらを立てない人間がいるはずもない。

「え、英二! 練習中だぞ!」
「ごめん俺体調悪いしなんか心も苦しいし気分悪いし」

 大石が慌てて駆け寄ってくるけれど、心を決した英二は態度を変えない。
 もう部活なんてやってるどころではない。今すぐの家にいって、看病係でいいから一緒にいないと駄目になる。悲しくて寂しくて、もっともっと情けない男になる。勿論それが我がままだと、自分勝手過ぎると気付いていても、その感情だけは抑えられなかった。
 さすがにそんな強硬手段に出るとは思っていなかったのか、レギュラー陣がわらわらと英二を囲みだす。

「英二、駄目だよ。竜崎先生に怒られるよ」

 入口を塞いだ河村はラケットを手にいていないせいで優しかったけど、無理矢理どかすにはちょっと無理がある。
 思わず英二が立ち止まると、それ今だとばかりに両腕を掴まれた。

「ちょ……! 乾、桃!」
「菊丸、今日のストレッチをさぼることは青酢二杯分に相当するぞ」
「先輩、勘弁して下さいよ。先輩が今日さぼったら俺がまた日誌当番じゃないすか!」

 さすがに自分より体格のいい男二人に掴まれては、英二はもがくことしか抵抗手段がなくなる。その隙に目の前には不二と大石がやってきて、ついには捕獲状態のまま悟りが始まった。

「駄目だ、英二。今度の親善試合は聖ルドルフとだぞ? 負けるわけにはいかないんだ、さっほら練習練習!」
「そうだね。ほら、それに英二が試合に勝ってくれた方がさんは喜ぶと思うけどな」
「ああ、そうだな。さんのためにも英二、頑張ろう」
「ちょ、ちょっと待てっ……!」

 勝手に話を進めていこうとする目の前の二人に、慌てて英二がもがきだす。
 しかし、この二人の説法に付き合い出したらきりがないということを理解して、とにかくこの場を抜け出そうと反抗したのがそもそもの間違いだった。

「ふむ、ということは英二は今日はグラウンド何周になるんだ?」

 頭上で響く乾の声は、明らかに後ろへと向けられていた。
 瞬間英二はもがくのをやめる。何故か背筋を通る汗に瞬きすら忘れかける。
 そんな時、無常にもその声は一際綺麗に響き渡った。

「百周だ、菊丸」

 やはり恩情という言葉を知らない鉄仮面部長。
 しかし、恋に盲目少年となっていた英二にそんな一言はもはや脅しの域ではない。両腕を掴む番兵も、目の前で笑顔を浮かべる説教徒も、入口を守る門衛も今となっては何も躊躇することない。
 なにせ、今日は誕生日なわけで。

「だーっ! だから俺は体調悪いっての!」

 恋の病で、とはさすがに言えなかったけれど。
 けれどその大絶叫はさすがに周りをびっくりさせるには一役買ったみたいで。

「あっ」
「英二!」

 誰がなんて叫んだかは分からないぐらい、とにかくがむしゃらに束縛を抜け出してテニスコートから脱出する。何故今日に限ってあんなにも止めたがったのは知らないけれど、早くしなければ28日が夜を迎え、姿を消してしまう。その前になんとしてもに会いたくて仕方なかった。
 とにかく急いで制服に着替えて、の家に行かなきゃ。その一心で部室へと戻り、電気がついていなくてまだ薄暗いそこへと足を一歩踏み入れた瞬間。

「わっ!」

 思わず間違えたかと思うぐらい、この場所では聞きなれない声が飛んできて。
 一瞬その声にびっくりして、とりあえず足を止めてから恐る恐る電気をつけてみれば。

「……なんで?」

 そこにあったのは、椅子に腰掛けて何かをしているの姿だった。

「なんで、って……」

 突然の来訪にの方も驚いて、何かを抱きしめたままとにかく目を丸くしている。英二も似たようなものだったけれど、それでも目に飛び込んでくる情報にはどうしても気付かないわけにはいかなかった。
 の腕の中にあるそれは、煌々と電気の漏れる部屋で落ち着いて見てみれば、自惚れでもそう感じていいとするのならば、確かにそれは編みかけのマフラー。

「……不二君たちは?」
「……コート」
「……英二、止められなかったの?」
「……振り切ってきた」
「なんで!」

 今にも泣きそうなぐらいに目を潤ませて怒るは可愛すぎて、思わず抱きしめてしまいそうだったけれど。
 編みかけのマフラーと、さっきの番兵と説教徒と門衛と、泣きかけの
 それら三つをつなぎ合わせて、ようやく英二は納得する。

「……、学校さぼったな?」

 その一言に優等生はぴくりと反応。マフラーを抱きしめたまま肩を竦めて、上目遣いでちらりと見つめ返す(それがますます抱きしめたくなる行為だと知っているのかは謎)。

「……だって、間に合わなかったんだもん」
「……不二に朝連絡したな?」
「……だって、不二君『テニス部総出で協力するよ』って言ってくれたから」

 一歩ずつ近寄っての顔を覗き込むと、秘密を見つかった子どものような目が自分を見つめていた。学校をさぼるなんてこと、はっきり言って皆無に等しいがこんな行動に出るのは確かに「悪戯が見つかった子ども」と同じようなものかもしれなかったけれど。
 そっと頭を撫でると、「子どもじゃないのに」と拗ねた顔でが呟く。
 結局、可愛さに耐えられるのは三度目までが限度だった。

「もう駄目、可愛すぎ!」
「わっ!」

 編みかけのマフラーも転がる毛糸も無視して抱き寄せれば、ほんのり薫る柔らかい匂い。
 思わずキスしてもう一度強く抱きしめると、苦笑するの声がもっと優しく聞こえた。
 誕生日が終わるまで、あと七時間。それでもあと七時間。

「ごめんね、遅くなって。お誕生日おめでとう、英二」

 抱きしめられたまま、小さく呟くにただ英二は頷いた。傍に、目の前に、腕の中にがいるだけで満足してしまう自分が単純すぎておかしかったけれど。
 結局、ケーキよりもプレゼントよりも何よりも、が欲しかったらしく。

「……マフラー、クリスマスまで延期していい?」

 そっと上目遣いで呟く恋人に、英二は笑って頷いた。

「キスと交換してくれるなら」

 そんな我がままも、今日ばかりは笑顔で受け止めてもらえる。
 今日は、恋に盲目的な少年にとっては少しばかり特別な、11月28日。



02/11/28