| 一年後、この場所で |
「……不正解」 今日何度目になるだろう言葉を口にして。 その都度、目の前の恋人は苦虫を噛み潰したような顔をして。頭を抱え込んで、大きなため息をついて。 それでも投げ出さなくなっただけ、それは前よりちょっとした進歩。 「英二、これ去年の問題だよ」 「分かってるよ」 「……証明問題ぐらい解こうよ、自力で」 「だーっ、俺が数学嫌いだってこと知ってんじゃん!」 どういう気まぐれか先生が定期テストに証明問題を出す、なんて言ったのがそもそもの始まり。 済んだことは全部振り返らなくてもよいものと勝手に判断していた英二は、おかげで最近謎の文章題に悩まされっぱなしでは解答解説役に徹し中。何の因果かは数学は得意分野なのに英二に至ってはからきし駄目。 (……嫌いって知ってるからこそ出してあげてるのに) なんて、英二が逆上しそうな言葉をそっと胸の内で零した。 相変わらず勉強会は誰もいなくなった3年6組の教室だったけれど、今日ばかりは英二も手を出さない。 「だからね、問題ばかり見てるから駄目なの。逆から考えるようにしていかないと」 「逆ー? 何それ」 いい加減嫌気がさしてきたのか、尋ねる声もどことなく億劫な感じがひしひしと漂ってきていて。 嫌いなものを勉強という言葉で半強制的にやらなければなない苦痛は分からないでもないのだけれど、それでも英二の彼女として見過ごすことだけは許されなかった。 「証明問題に答えは一つしかないんだから。その答えをまず突き止めて、それを証明するにはどういう手順で言葉を並べていけばいいのか考える、それだけでいいんだよ。直角三角形にも二等辺三角形にも、合同でも相似でも証明に使える条件は決まってるんだから。だからね……」 そこまで説明を終えて、少しだけいつもの不安にかられて。 嫌な予感にそろりと視線をあげて見れば、案の定ちんぷんかんぷんを通り越して脱力してしまっている英二の顔とぶつかった。 「全っ然分かりません」 「……聞く気になってなかっただけでしょ?」 「そうとも言う」 英二はそれだけ呟くと、それでも一応視線を教科書に落としてくれた。 自惚れかもしれないけれど、そうやって嫌々でも自分の前では勉強しようと欠片ほどでも思ってくれたりするのはちょっと嬉しい。クラスメイトで大親友の不二が同じことをしても簡単に投げ出す飽き性英二が、今日までテスト前の勉強会にきちんと参加してくれたりすることが本当に嬉しい。 英二に見えないようにそっと頬を緩ませて、頬にかかる髪を少し耳にかけても教科書に視線を落とした。そんな時。 「、今日はここでお開きにしない? 俺数学飽きた」 シャーペンを回して恨めしげな視線で見上げてくるのは、拗ねた時の癖。 皆の前で「男の子」している時の態度が時々こんなところにまでやってくる。それは偶然のものではなくて、わざとだったりするからちょっとタチが悪い。 「英二、昨日も同じこと言ったよ」 「言いたくもなるって。二時間やっただけ進歩した証拠」 「……昨日より十分長いだけじゃない」 「あーあ、テストなんてなかったら今日デート出来たのに」 集中力の途切れた英二はの言葉すら無視してだらけ始める。テスト前にぼやいても何の効果もない、そんなこときっと英二だって分かっているのだろうけどそういうぼやきを口にし出したら止まらない。英二の厄介どころオンパレードではさすがにも無理矢理勉強を進めさせるわけにはいかなかった。 どうして分からないのかな、なんてそっと英二を見遣る。 付き合った頃から変わらない柔らかい赤髪。鋭さを控えさせた丸い瞳。少しテニス焼けした健康的な肌色。 外見だけじゃなくて、英二には素敵なものが沢山ありすぎて。別に探す必要すらないぐらいだっていうのに。 「俺普段部活だし……はデートしたくないの?」 無意味に教科書に添えていた手に、そっと英二の温もりが寄せられる。 その温かみには伏せ目がちになっていた視線を上げる。上げた途端、大好きな恋人の大好きな瞳に射抜かれて身体が硬直する。 視線一つでこんなにも違うのに。勉強なんて無理にしなくても、素敵なところを沢山持っているのに。 「したいけど……でも、テスト勉強はやらないと」 誘惑に揺らぎそうになる気持ちをぐっとこらえては呟いた。 それを放棄するわけにはいかなかった。たとえ英二とのデートが代償になったとしても。 触れるだけだった英二の手がぎゅっと握り締めてきても、それでもは頷くことは出来なかった。 綺麗な真っ直ぐの瞳は痛いぐらいに自分を刺す。その分自分がどんどん惨めになっていく。英二に比べて、自分はどれだけの魅力あるものをもっているのか分からなくて混乱する。 「別に外部受験するわけじゃないんだし」 英二の呟きは拗ねたような悲しんでいるような、そんな色々な響きが込められて聞こえた。 「……受験、か」 だから、そうさせてしまっている自分をこれ以上感じていたくなくて。少しだけ重たくなってしまった空気を消してしまいたくて。 いつもみたいに他愛ない冗談を言えば笑ってくれるなんて、どこにも根拠のないことを思ってしまったのがそもそもの間違いだった。 「するって言ったらどうする?」 手を握り返すと、今度は英二の方が硬直した。 「……は?」 「だから、外部受験」 それは本当に、場を和ます程度の意味しかない冗談のつもりだった。いつもなら英二の方が沢山冗談を言うし、だって数え切れないぐらい言い返してきた。 今日は昨日の延長線。昨日は一昨日の延長線。 だから、例え成文化されていなくてもそれは二人の暗黙の了解だと思っていたのに。 固まってしまった英二に笑って冗談だよ、なんていうこを口にしようとしたその時。 沈黙の空間にガタッという音がして、不意に手から身体が持ち上げられて。 「……英二?」 立ったままはわずかに目を丸くして尋ねた。それでも英二は何を返すわけでもなく、怒っているのか悲しんでいるのかすら分からない目で自分を見つめていた。 それは明らかにいつもの英二とは少し違っていて。 本能が謝りの言葉を告げようとした時、有無を言わさぬ一瞬での身体は英二の手によって教室の外へと連れ出された。 誰もいない三年の教室の前を通り過ぎ、蝉が早鳴きする渡り廊下を渡ってそのまま屋外へと連れて行かれる。繋いだ手の温みがどんどん増していく。 その間も英二は無言で、は導かれるままそれに従うしかなかった。ただ絡め取られた自分の手は苦痛を訴えるでもなく、強引ではなく単に誘導されているような錯覚に陥らせた。 校舎を出て数分。夏の日差しの下、見慣れてはいても全く未知の場所にたどり着く。 そこは一年後の指定場所。 「俺、単純だから考えたことないんだよ」 英二の背中が小さく呟いた。 「卒業したら皆ここに来るのが当たり前なんだって。不二も大石も、皆ここでテニスやるんだって。また皆で一緒に球拾いとかすんのかよ、めんどくさいなーとか手塚の球拾い姿はちょっと見たいかもとか」 初めて入った高等部校舎内に人影は全くなくても、寂しく響く英二の声はにしか聞こえなかった。 冗談なんだよ、なんて言える心はもうなかった。ゆっくり振返った英二の目は心なしか潤んで見えてしまうぐらい弱々しくて。 「もここに来るって、そうなんだって、思ってた」 いつもなら抱きしめてくる指が今日は固まってしまっている。隙あらば近づいてくるはずの顔が何も求めていない。 都大会の準々決勝で負けた時、あの時に見せた切ない表情をそこに見つけてはもう何も言えなかった。 勉強をするのは自分が英二につりあうようにするため。テニスだけじゃなく、人間的に人をひきつける大切な恋人にとって厄介な存在にならないための唯一の武器。 そう思うからこそ英二が部活を頑張る分勉強して、部活で手が回せない勉強を自分がサポートしてあげられればそれが幸せだった。長い付き合いの中英二もそれを理解してくれていて、勉強会だけは途中だらけようとも放棄することはなかった。 「勉強するのはのことを思えば別に普通のことだし、俺に教えてくれるために好きじゃない理科だってやってくれてたのが嬉しかったのに」 わずかに繋いだ手の内が汗ばむ。見知らぬ校舎の中でいつもとは違う表情を見せる英二は知っているようで知らない、大人びた人のよう。 は渇いた口でそっと英二の名前を呼んだ。 「……英二、あのね」 ただ、名前を呼ぶだけで肝心な言葉は言えなかった。 「俺、嫌だから」 英二はよく言葉を遮る。感情を顕にするために自分の言葉を先に伝えたがる。 手を繋いだまま、ただは英二を見つめるしかなかった。 「外部受験なんて絶対嫌。のこと思えば勉強を優先させるのが当然だけど……そりゃ、39度の熱出した時もテスト受けたいっていうの気持ちを優先させたけど! 離れるのだけは絶対嫌だ」 英二は人に甘え上手。誰もが英二に頼まれたらなんだかんだで寛容的に受け止める。 自分もそのうちの一人で、あしらうことが出来るのは不二ぐらいで、でも甘えてもらえるその立場が嬉しくて許容してしまっていたのも事実で。 けれど今英二の言葉を聞いて、は過去の記憶を甦らせていくうちに相互依存の関係が次々と思い浮かんで仕方なかった。 いまだに勉強会を続けてくれているのは自分のコンプレックスを理解してくれているから。 39度の熱を出した時も結局テストを受けさせてくれたのは、自分の性格を全部知ってくれているから。 「そりゃ我がままだって分かってるけどさ……でもさ、が知らない制服着て、知らない学校行って、知らない人と話してるのなんて……想像したくない」 その後英二は、単なる焼きもちかもしれないけどさあ、と付け足して。 でもの気持ちが一番だっていうことぐらいちゃんと理解してるんだよ、でもさあ、なんて。 そう言ってもらえるのはすごく嬉しいことだったのに、それでも英二はそれは単なる自分の我がままだと慌て始めて弁明の言葉を次々と口にした。 沈んでしまった空気を感じ、罪悪感に責めたてられていた心が少しずつ緊張からほぐれる。いつもと違う英二の表情に固まってしまっていた指先が緩む。 もしかして、なんて小首をひねりたくなった頃、自暴自棄になりかけた英二は結局訳の分からない言葉で訴えた。 「百歩譲っても女子校。……じゃないと、俺多分毎日嫉妬する」 がしっと両肩を掴まれて。下手な青春漫画のように真摯な眼差しでそんなことを切願して。 その言葉の裏には(冗談であれ)自分の意志を尊重してくれる英二の気持ちがきちんとあったのだけれど、それでも最後の最後で思わず吹き出してしまうような言葉を言ってしまうあたりがやっぱり英二だった。 「……英二、ストップ」 「……何が」 強情を張り通そうとはしているけれど少しだけ目尻に光るものが見えるような見えないような。 自分をいつも守ってくれる恋人の我がままはその「いつも」よりストレートで、可愛くて、心に沢山足跡を残した。 それを振り帰れば振り帰る分だけ、我がままを可愛いと感じることが出来る分だけ自分は英二のことが好きなんだと実感してしまうのだけれど。 「『するって言ったらどうする?』って、聞いただけだよ」 涙目になるぐらい苦笑して言うと、途端英二の手に込められた力が抜けた。 「……冗談?」 「うん、冗談。ごめん」 はそっと英二を見上げた。脱力した恋人はまだ少しだけ目を丸くしていて、冗談を本気でとらえていた疲労感に襲われた顔をして。 まさか本気と取るとは思っていなかったから、そのことに関してはきちんと謝りの言葉を述べて、そしてはいつものように英二の背中に手を回した。 「外部受験なんてしません」 自分をそっと抱きしめ返す温もりはいつも優しい。このとっておきの場所を手放すなんてこと、英二に依存してしまっている自分に出来るはずがない。 ただ、それは今自分を抱きしめている英二にも言えるらしいことがひどく心をくすぐった。 「本当?」 英二の指が頬を撫でる。自然視線を持ち上げられて、は英二を見つめて頷いた。 「私、英二と離れて我慢できるはずがないよ?」 首に手を回せばそれはお願いの意味。 英二は笑って、「俺もなんだけど」なんて呟いてからそっとキスをくれた。 いずれ通いつめなければならない高等部の校舎でしたそれは、きっと何も言わなくても一年後の約束。 |
| 02/07/24 |