秘密記念日

 それまでは、電車の中での別れが普通で。
 ちょっとした休日の時には玄関先まで送ってくれた時もあったけれど、それでも別離の言葉を言わなければならないのは同じで。時間を繋ぎ止めておくことは出来なくて。

 それが続いて、慣れて、半ば二人の間で常識化した頃。
 長い年月を経て、繰り返しの言葉を慣習じみた感覚にまで染めてしまっていた頃。

 別離の言葉を言わなくてもいいように、英二が変えてくれた。



 はふと顔をあげる。
 春の陽光で部屋が暖まる中、洗濯物をたたんでいた手を止める。三時を告げる柔らかい音が空間を支配する中少しあたりを見回してカーペットから腰を上げた。

 まだ少しだけ新しい家具の匂い。微かに観葉植物のそれが漂いはするけれど新鮮味という意味では明らかに家具に負けていた。
 傷一つないフローリングだとか。少し小さいけれど真新しいダイニングテーブルとか。暖色系でまとめるために配色でちょっとだけ口論した柔らかい白色のソファとか。
 今まで見たことも考えたこともなかったもの全てがそこにはあって、それら全部がもう自分たちのもので。
 自分と英二が空間を占拠してもいい、そんな状態で。

「あと二時間か……」

 英二が帰宅するのは五時過ぎ。会社近くのマンション三階までやってくるのに早々時間はかからない。
 とはいえ掛け時計がまだ日差し温む午後三時をさしているのもまた事実で、結局そわそわしてしまって時計が三時を告げるよりも早く視線を送ってしまった自分には少しだけ笑った。

 五時に帰宅する旦那様。会社が終わってすぐ(まだ新入社員より二つ先輩なだけなのに)戻ってきてくれる人。

「少しぐらい残業があってもいいと思うんだけど」

 相変わらずせっかちだなあ、なんて中学の時から変わらない彼を思い出しては苦笑した。

 空間を共有できるようになったのはつい最近だけど、思い出を共有できるようになったのは遠い昔。大学四年間も、高校三年間も断続的とはいえそれでも決して途絶えることはなかった記憶。
 始まりは中学生。まだお互い小学生の頃の面影を残したまま出会ったその日からの小さな重なり。

 軽く束縛を訴える左手に視線を送れば、そこには陽光から離れても鈍い輝きを見せる銀の指輪が確かにあって。
 高校生の時にもらった指輪とは別の、親戚親友の前で公然と与えてもらった指輪がそこにはあって。

 窓際に立って陽光に照らせばチカチカとした輝きが一瞬生まれて、一瞬で消える。そんな儚い光。自分に示してくれるのはたったそれだけ。
 それでも、それはそこに確かに存在しているものだということを認識できることが嬉しくてがまた頬を緩めた、そんな時だった。

「……?」

 突然無音の空間に響き渡った電話の呼び出し音には振り返る。けれどそんなの小さな戸惑いもお構いなしに無機質な音は鳴り続けた。
 三時という、主婦以外暇を持て余していないだろう時間帯に自分の家にかかってくる電話の用件が思い当たるはずもなく。セールスだったらなんて言い訳しようなんて思いながら受話器を耳にするしかなかった。

 はい菊丸です、なんてやっと慣れ始めたその挨拶を口にする前に。



 その前にの言葉は簡単に遮られて。
 受話器なんていう無機物の向こうから零れ落ちてきたその声は、いつになっても心臓が慣れてくれないもので。

「……英二?」
『そ』

 立ったままはそう尋ねるだけで精一杯だった。
 聞き慣れた声のはずだった。もう十年近く自分の側で聞いてきた声だった。
 なのに、遠い距離を感じるこんな時だけ。自分がふと恋しく思った、そんな時だけ。身体が少しばかり不自由になったりしたりして。

『俺の奥さんにお願いがあります』

 喧騒じみた雑音の中から澄んで聞こえる英二の声はいつもと何ら変わらなかった。変わらないのに、自分の心臓が用意出来ていなかったというたったそれだけで音色は切ない。安堵する感情の前に声を聞けるその嬉しさばかりが零れ落ちていく。

「……何?」

 は自然と緩む頬のままやんわりと尋ねた。

 窓の向こうに目をやれば抜けるような青空。きっと会社から抜け出して携帯からかけている英二も同じものを見ているはず。
 遠い距離の中にある、ちょっとした共通点がどことなく嬉しくては笑う。

「夕御飯の変更なら受け付けません」
『違うって』

 冗談で呟くと、それを冗談ときちんと理解してくれて。
 繋がっているものは声しかないのに、それだけで全てが手にとるように分かるその感覚が相変わらず好きで好きでたまらない。

「じゃ、何? 電話かけてくるなんて珍しいね」

 本当は嬉しくて仕方ないくせに少し隠してみたりして。
 絶対英二にはそんな感情ばれてるに決まってるのに、自分でも分かってるのにそういう態度をとってしまうのは学生の頃と変わらない。高校生の時も、中学生の時も。

 長い年月が流れてくれた分だけ言葉が表さなくても空間が伝えてくれるものが大きかった。
 だから、いつのまにかあの英二も人の感情を読むのにやけに長けてしまって。

『声聞きたくなったからさ』

 元々人の感情の波には敏感な人だったけれど、それ以上に相手の感情を喜ばせる方法というものを身に付けてしまって。

 は押し黙る。本当、かなわないなあなんて苦笑しながら。

 その言葉一つがどれだけの波及効果かを持っているかは本人の想像以上だということ、伝えてあげなくちゃ自分の方がもたなくなってしまうんじゃないかって思えるぐらい。

「それがお願い?」

 笑って尋ねると、電話口の向こうで英二も微かに笑ったようだった。

『そ。お願い。声聞かせて下さい』

 そのお願い一つで満たされるのは何も英二だけじゃない。
 お願いをされているはずのですら嬉しくて、むしろそんな相乗効果を知っているからこそ英二が口にしているとしか思えなくて。

「声だけで満足出来るんだ、英二は」

 空が眩しい。三時なことが恨めしい。
 あと二時間もすれば。橙色の消えかかる薄闇の空になれば、こんな遠回りなことしなくて済むのに。身近にその温もりを感じることができるのに。

『何それ。誘ってるの?』
「さあ?」
『まだ昼間だよ、

 大人になって笑い方が少し変わった。今までは天真爛漫な部分が少なからずあったけれど、今はどことなく大人びてしまって。勿論社会人三年目だから大人になって当たり前なんだけれど、十年という時を共有しているですらその変化にきちんと気付くことが出来るぐらいで。

 それは昔の英二も今の英二も自分で独り占め出来ている証拠だったから、指摘されれば確かに嬉しかったりするのだけれど。

「じゃ、早く帰ってこればいいんじゃない?」

 自分は本当に単純な生き物。
 そうなれば嬉しくて仕方ない言葉を、さっきまでの気持ちとは裏腹な言葉を口にしてしまう。
 社会人三年目だからもっと残業? そんなのタテマエ。所詮今の感覚が好きで好きで仕方なくて、しかも英二は裏切らないって分かっているから思うことの出来るごたく同然で。

『帰るよ、勿論』

 受話器の向こうの英二はいつもと変わらないのに、笑みを零してくれているようなその声がすごく自分の胸をしめつけた。





 その日の夕御飯は、英二の好きなものだけをセレクトした。

 中学生の頃はカッターシャツ。今じゃそれがワイシャツで、ガクランもスーツに変わった。相変わらず首回りを締め付けるネクタイは気に入らないみたいだったけれど、少しだけ緩めて着流しているその姿が実は好きだったりする。
 大きくなったのは自分だけじゃなくて、確かに目の前の人も大人になっていて。
 けれど胸のうちにある想いが何ら変わっていないのは、ある意味すごいこと。

「英二」
「ん?」

 洗い物を済ませたあと、カーペットの上に無造作に座っていた英二の横にそっと腰を下ろした。

 昔は女の子並に丸くて可愛かった双眸も、今では少しだけ(気持ち的に)切れ長になってみたり。全体的には何も変わっていないと思っていたら、それは全体が大人っぽくなっていただけだったり。

「今日、どうして電話かけてきたの?」

 なんとなく引っかかっていた疑問を何気ない視線と一緒にぶつけてみる。その眼差しを受けて、英二は二、三度目を瞬かせてそして。

「記念日だから」

 さも当然かのようにさらりと言った。その言葉を受けて逆にの方が目を丸くする。

「……記念日?」

 結婚記念日ならまだまだだよ、なんて言いかけた時。
 右横の英二は昔の可愛い笑い方を一瞬して、そして足の上において軽く組んでいたの手にそっと触れてきた。
 今でも触れられる度、本当にその度に心臓が音を立てる感じがする。

「俺とが付き合いだしてから」

 じっと見つめるでもなく、あさってな方向を見るでもなく。少しだけ伏せめがちな感じで。

 その言葉は本当に、自分が幸せ者なんだということを実感させてくれるには余りあるもの。 普段一緒にいられることが本当に幸せなんだということを思い知らせてくれるには十分過ぎるもの。

「結婚とは別じゃん、そういうの」

 英二の指が硬い指輪に触れて、指ごと持ち上げられてキスされた。
 テレビの音が遠くから空間の中に響いているというに、今聞こえるものは自分の心音だけのような感覚だった。触られた指が熱くて、温もりがそのまま存在を表していて。その温もりを感じられる自分がここにいることを許されているような気がして。

 本当、目の前の人は変わるところは変わっているのに変わらないところは全然変わってなくて。

「だから電話?」

 泣きたくなるのを必死で堪えながら尋ねたら、声は見事に上ずった。
 きっとそんな感情も見透かされているんだろうなあ、と思って見つめたら英二は苦笑して。

「昔の気分をちょっと味わってみたかった」

 昔は、電車の中での別れが普通で。むしろそれが当然で。

 ちょっとした休日の時には玄関先まで送ってくれた時もあったけれど、それでも別離の言葉を言わなければならないのは同じで。時間を繋ぎ止めておくことは出来なくて。
 許されない時間帯での接触は遠い空間を一本の糸で埋めてくれる電話しかなくて。

「そしたらやっぱり会いたくなった。俺昔と全然変わってないよ、本当」

 幼い笑い方が過去と重なる。すぐ触れたがる指先の温もりも変わらない。
 それはどことなく、自分が幸せを感じるものは何一つ変わらないまま、別に新しく二人の空間が付け加えられているような感じで。

 は英二の手をそっと握り返して、そして笑って言った。

「私も会いたくなったよ、菊丸君に」

 昔の呼び方で。付き合う前までの、少しだけ意識してしまって名前を呼ぶだけで妙にそわそわしてしまったあの時の感覚で。

、もう菊丸じゃん」
「それは今でしょ。最初の英二は『菊丸君』。英二だって私のこと最初『さん』なんて呼んでたくせに」
「俺だって純情なんです」
「初めだけね」
「そんなことないって」

 苦笑の仕方はどことなく大人びたものに変わってしまったけれど、目に残る優しさは昔のままだった。

 髪を梳きたがる手とか、頬に触れたがる指先とか。自分に感覚的な幸せを与えてくれるものは何一つ変わっていないから自分もその都度昔と同じドキドキを思い起こしてしまって。
 何を示し合わせることなく、あえて言うならそんな小さな接触が自分の瞼を閉じさせることをは知っていた。

 鼻にかかる、ちょっとだけ甘い笑いの中でしたキスはいつもと同じ。
 同じだけどやっぱり嬉しかったりするのは相手が英二だからなのか、それとも自分が英二を好きになりすぎてしまっているのか、もう分からなくなっていて。

「キスした後に絶対目を伏せるの方が純情」

 自分のことを知り尽くしてる英二に公然と依存できる幸せに少しだけ浸かりつつ。
 そしてそんなことを言いながらキスを一回じゃ終わらせない英二に付き合いつつ。

 変わらない関係にが笑うと、英二も笑って「祝11周年」と言ってくれた。



02/06/08