| 3時のおやつ |
| 「はい、英二」 その一言がとても好きだった。 自分だけに向けられた、自分の名前を呼んでくれるその声が。 好きっていう感情を表すのに、俺は直接的な方法しか知らなくて。 場所がどうとか関係なくて。 たとえそこが学校であろうと教室であろうと水飲み場であろうとテニスコートであろうと。 好きなもんは好き。だからそういう行動を取る。 直接伝わる方が、やっぱりどことなく嬉しくない? 「あーもう、可愛すぎ!」 俺はぎゅっとの身体を抱きしめた。腕の中にある温もりを逃すまいと。 「また、英二ってば……」 腕の中でがうなだれる。そんなこと、とっくの昔に予想済み。 いつから昔とか関係なくて、もうそれは2人が恋人っていう特別な関係になった時から。 時間軸は共通。感情を等しくできるものであればなんでも摂取。 例えば、今の時間帯だって結局そんな感じ? そんなことを考えながら俺はただの身体を腕の中に独占した。 「いいじゃん、別に。誰もこないって」 「そういう問題じゃないんだけどな」 吐息がひとつ、ふわりと俺の腕にかかって消える。 柔らかく落ちてくるその感触が、本当に、たまらなく好きだった。 きちんと自分が実感できる2人の距離。息がかかるぐらい近づいているその関係。 今でこそこんなに当たり前のように存在しているけれど、そういうものも結局はそれなりの段階を踏んでこなければ得る事のできない、叶わない大切なもので。 いわば、それは自分自身がこれまで努力してきたことへのご褒美のような。 「食べないなら私がもらっちゃうよ?」 甘い声で尋ねられて、俺はの背中に頬を寄せたまま「だめ」と呟いた。 土曜の午後。授業が終わって3時間も経った教室には誰の人影もない。 都大会終了後、久々に与えられた休息は運が良いことにそんな幸福な時間がある土曜日にあたっていたから。 「俺の分ちょうだい、」 頬を寄せたままそう言って、俺は頭の中で3時間前を思い出していた。 土曜のラスト、3時間目の国語はある意味空腹と睡魔との戦いだ。 そんな授業を(自分でも驚くぐらい)きちんと真面目に受けた後、俺たちは鞄も持たずに速攻で(問答無用で)2年8組に向かった。 授業が終わって間もないその教室に乗り込んで、容赦なく桃にずかずかと近づいて。そして帰りたがる桃の愛用自転車の鍵を掻っ攫い、きちんとに「ごめんね」と謝ってもらってから(基本的にこれで誰もが納得する)青春台駅の方へと2人乗り。 そしてお昼時間でごった返す駅前のドーナツ屋に制服のまま入っていって、人の列に2人一緒に並んで。適当にドーナツを選んで、適当に買って。 今じゃ当たり前の2人の時間だけれど、それでも回りにその光景を見せることが出来るのは彼氏としての優越感。自慢の彼女を公然と独占できる満足感。 例えば、「どれがいい?」って尋ねてくれるとか。 例えば、「英二これ好きだったよね」って確認してくれるところとか。 そういうのは、やっぱり今まで時間をきちんと共有していなければ分からない代物でしかなくて。聞いてもらえるこの立場も、時間をかけて馴染ませた努力の結晶であって。 そんな楽しい気分で戻ってきた3年6組は、理想どおりにもぬけの殻だった。だからこそ俺はここぞとばかりにを抱き寄せ、まるでコアラのように抱きつく。 苦笑しながらも、俺の言葉どおりにきちんと口に運んでくれるの手が、俺は好きでたまらなかった。 「やっぱり猫みたい」 「は?」 「エサが欲しい時だけ甘えるじゃない、猫って。今の英二そっくり」 笑うの身体が腕の中で小刻みに震えてくれる。 誰もいない3年6組の教室。場所はいくらでもあるのに、俺は自分の机に座って。は背中を向けるようにして俺の腕の中におさまっていて。 シャンプーの香り漂うのさらさらの髪の向こうは窓。 見下ろせばきっと海堂あたりが自主練でもしてそうなテニスコート。 そんな、誰もいない広い空間を2人で独占するというのは。更に校内でも美人と有名なを自分の腕の中に独占できるというのは。 それに並ぶ幸福というものを、いまだに俺は見つけられていなかった。 「……嬉しくないんだけどな、それ」 「気にしない気にしない。みんな思ってることだから」 「俺はそんなに単純な生き物じゃないっての」 放り込まれたドーナツを食べながらの髪に指を絡ませる。 この質感を実感できるのもきっと自分だけなのだと改めて思うと、俺は嬉しさをこらえることが出来ない。こういう意味では、すごく単純だったけれど。 「……あー、でも、の飼い猫ならいいかもしんない」 呟きを漏らすと背中が少しだけ震えた。静かな空間を漂う空気が、の笑みを緩やかに伝えてくれる。 「飼い猫ならどこでも一緒だしさあ」 「なにそれ」 どんな言葉もきちんと受け止めてくれる笑みがそこにはいつでもあった。 でも。確かに、これは幸せをくれるのだけれど。 この幸せに嬉しさは感じるけれど、でも満足とは違う。 まだ知らない明日があるのに、もし明日にもっといいことが起きたら。 心の用意をしていなかったら、もしかしたらその楽しみを100%感じることが出来なくなるんじゃないかと思ってしまうから。 「、俺のやつ取って」 背中にくっついたまま紙袋を指差す。 それは、3時間前に2人で買いに行ったドーナツの入った袋。 前の机にある袋を手に取り、きちんと食べやすいようにはドーナツを半分に分けてくれる。分けて、それからもう一度割って。 4分の1の大きさになったそれを細い指で再びそっと差し伸べてくれて。 この感覚が好き。「俺の」の一言できちんとほしいものを選んでくれるが。 何もお願いしなくても、当たり前のように割ってくれるの指が。 「口開けて」 わずかに振り返ったが笑って言う。 やっぱり単純な生き物だった俺は、の笑みにつられて笑いながらその言葉どおりに口を開ける。ぎりぎりで触れる指の感覚に囚われてしまいそうなうちにドーナツがその場を占領して。 あっさりと指を引っ込めたに対し、英二は一応ドーナツを食べながらも頬を膨らませた。 「……」 「え、何?」 残りのドーナツを英二の口に運ぼうとしていたはそんな膨れっ面の彼氏の前で目を丸くする。 膨れ面をしたまま英二はそのあどけなさにやられて、結局もっともっと強く抱きしめてしまうのだけれど。 「もまだまだだよね」 「なあに、それ。越前君の真似?」 「俺あんなにふてくされ顔じゃねえよー」 「じゃあ今の顔はなんなの?」 ドーナツを持っていない指でが英二の頬を突付く。至近距離での笑みは息が頬に、髪に触れる。 こういうじゃれあいは嫌いじゃない。触れられる嬉しさをかみ締められるから、嫌いじゃないというよりはむしろ好きな方。 触れていた指をそっと握り締め、もっと触れていたくて指ごと自分のように引き寄せた。圧倒的に力の弱いの身体は、呆気なく向き合う形になって再び腕の中へと閉じ込められる。 「英二最近大胆だよね」 ぽつりと呟かれたその言葉に英二は苦笑した。 (大胆にさせてるのはなんだけど) 別に場所がどこであっても関係なかった。人の目がないお互いの家は勿論のこと、学校だって。教室だって、水飲み場だってテニスコートだって。 自分の感情を受け止めてくれるなら場所なんて問いたくない。その一瞬に生まれる感情をきちんと相手に伝えたい。 そういうのって、なんとなく嬉しい関係。 「ダメ?」 上目遣いで自分を見てくる瞳に英二は小首を傾げて尋ね返した。 ふわりと頬に触れて、さらさらと髪の毛を自分の手で梳いて。そのうち指だけじゃ我慢できなくなって頬ずりに近い感じで顔をくっつけて。 沈黙を埋めるものは言葉以外にもいくらだってあるということを、英二はと付き合うようになってから初めて知った。 「駄目」 「嘘ばっかり」 笑いをこらえた感じでが呟いたけれど、英二はあっさりそれを拒絶した。 拒絶しても許される理由というものを、既に手に握ってしまっているから。 「だって嬉しいくせにー」 耳元で笑うとも自分の耳横で笑う。 「時と場合によってはね」 「あ、それも嘘」 どれが嘘でどれが本当かなんて、好きになった女だから分かるに決まっている。 ある意味客観的に見られるから、もしかしたら自身よりも本音みたいなものを理解しているのかもしれなくて。 勿論そこに贔屓目が働くことぐらい英二だって知っていた。言葉では言い表せない感情を持っているのだから、言葉どおり客観的見解なんて出来るはずがないことぐらい。 それでも、そこに生じてくる誤差を誤差じゃなくしてくれるものがあることも知っていたから。 「俺、のこと詳しいからねー」 見上げてくる瞳の上にそっと唇を落とす。瞬間が瞼を閉じ、長いまつげがさらりと英二の頬にあたった。 いつからこういうことが許されるようになったのかなんて覚えていなかったけれど、それでもやっぱりこれは自分へのご褒美。 きちんとの彼氏として努めてきた自分への、からのご褒美で。 「例えば?」 挑発的に口の端をあげた笑みを浮かべるに英二はにっと笑って。 「本当はもこういうこと好きなの」 「ちょっ……!」 油断していたの身体を強く抱きしめる。瞬間、眉根がほんの一瞬だけ歪んでしまうのだけれど、それも無視して英二はあっさりと唇を重ねた。 誰もいない空間では、2人が言葉を交わさないと何も響いてはこなくて。 ただ耳にじんじんと伝わってくるのは、お互いの混ざり合った鼓動だけのような、そんな錯覚が簡単に起きる。 「英二!」 不意をつかれて真っ赤になるを苦笑してからもう一度、今度は優しく腕の中に抱きしめる。 彼氏になって、を見る機会が増えた。それまでも何度も見てきたけれど、今度からは公然と見つめていいようになった。 そこで得られたものは沢山あって。 「だって俺が相手だからね」 笑って一言、そういい返すと。 あのが本当、顔を真っ赤にして何も言い返すことが出来なくなってしまって。 実は、こういうことも予想済みなんだけどな。 ドーナツを手に持ったまま呆然としているの顔を寄せて、もう一度キスして。 英二のバカ、という小声の呟きはもう何の皮肉の意味もなかった。 俺がかなり贔屓目な「客観視点」で見てることは知ってる。 本当の意味での「客観的視点」からめちゃくちゃずれちゃってることも知ってる。でも案外それは外れてなくて。 生じる誤差を埋めてくれるのは、結局の感情一つ。 「ね、。俺お腹減った」 囁き返すと、本当に困ったような笑顔を浮かべてはドーナツ四分の一とキスをくれた。 ほらね。 全部の感情が俺に向いてくれてるおかげで、俺はこんなことも出来るってやつだから。 だからいつもそのお礼に、俺の感情もオープンにしてるっていうだけ。たったそれだけ。 は気付いてないみたいだけど、まあそんなあたりも可愛いということで。 |
| 02/04/03 |