身勝手な楔 17歳

 まるでそれは、中学時代の思い出の焼き直しをしているようだった。

「あれ」

 聞き覚えのある声に慌てて振り返れば、もちろんそこには彼の姿がある。進級した2年3組の教室の入り口前、張り出されていた紙を見て呆然としていたを見て、財前はしばらく状況が掴めなかったらしい。1組から順に自分の名前を探してたどり着いた3組で、自分の名前との姿を同時に見つけることの意味を、最初は理解しがたいようだった。無理もない。10クラス近くある2年生の教室で、こそ今更自分の名前と財前の姿を同じ視界に収められるとは、夢の世界までの話だと思っていたのだ。

「3組?」
「……3組」

 どのようなトーンで返答をすればいいのか考えあぐねながらもそっと上目遣いで呟けば、財前は眠そうな目をしばらく教室の中に向けたあと、ふうんと相槌を打った。それだけの反応しかしてもらえないのかとが困った視線を向ければ、表情を変えないまま、左手がそっとの腕を優しく叩いていった。
 あまり周囲に付き合っていることを知られたがらないに配慮してくれたその態度に、今更ながら心が温かくなる。本人は決して認めないだろうが、言葉で特別に言い表さない代わりに様々な配慮をしてもらっていることをは一番知っているつもりだった。

「私、最近財前と腐れ縁すぎてどうしようかと思うわ」
「あはは、今年もよろしくね」

 1年の時も財前と同じクラスだった中学時代からの友人が、財前の姿を見つけるなりため息をついたので笑って慰める。いちゃついてくれた方がいっそすっきりするわと笑いながら教室に入っていくと、財前の方がぎょっとした顔をしていたのがおかしかった。
 3年ぶりの、同じ教室だった。あの頃よりも背が伸びた。体つきも一回り大きくなったように見える。そしてなにより、がその目で財前の姿を見つめる時間が明らかに増えた。

「ええ、ちゃん一緒のクラスなの?! クラス替えの神様っておるんやね!」
「せ、先輩。声大きいです!」
「大きくせんでどうすんのちゃん! あの子が青春を謳歌するのにこれ以上ない舞台やないの! って、あら」

 始業式が終わって教室へと戻る途上、廊下で偶然出くわした金色にクラスを報告すると、親友以上の大きな声で歓迎された。その横をあからさまに避けるようにして財前が他の男子と通り過ぎて行ったので、青春よねえと金色はしみじみと呟く。
 金色の視線がの左手で止まり、固まったのはその時だった。

ちゃん、指輪つけてこーへんの?」

 そっと囁くように尋ねてくれる金色の配慮は、いつでも優しさに溢れていた。は右手で覆うようにして左手を隠すと、財前が教室へ戻っていったのを確認してから小さく頷く。あらあら、と金色は残念そうにため息をついた。

「やっぱり恥ずかしい?」
「学校はまだ、ちょっと。出かける時はつけてるんですけど」
「光くんはそれ見てなんて言うてるん?」
「え? 別に、何も」

 あらあら、と今度は笑いながらのため息をつく。どうしようかしら、とも呟いていたかもしれない。だがその真意を尋ねる前に、一氏に呼ばれた金色は3年の階へと戻っていってしまった。教室へと戻る生徒の波の中、遠回しに違和感を訴える金色の言葉の意味をどのよう解釈したらよいのか分からないまま、も教室へと戻る。
 教室には、去年まではなかった財前の姿がある。相変わらず無表情で本当に楽しんで会話をしているのか判別のつきにくい人だったが、彼が会話をすること自体が肯定の意味であることを知っているは、少しだけ笑いそうになるのを堪えながら自分の席についた。財前がちらりとこちらに視線を送った気もしたが、自分が財前と特別な関係であることを知っている人間は多くない。昨年クラスで彼女がいることを財前自身は打ち明けてくれていたが、それがであることまでは彼なりの配慮で言葉として出していなかった。だから同じクラスになった今年1年も、特別な用事がない限り自分と財前は教室で親密に話すことはないだろうとは思っていた。

「同じクラスだからこそやんか。もったいない」

 去年財前と同じクラスだった親友はつまらなさそうに呟く。

「同じクラスだからやん。出かける時はきちんとつけてるし」
「財前は多分そういう意味であげたんとちゃうと思うけど」
「……そう? 何も言わへんよ?」
「何か言うやつやったら去年あんな失態せえへんし。ていうかなんで私が財前に詳しいねん」

 親友は困ったような呆れたような、幼い子供を見るような目で笑ったあと自分の席に戻っていった。
 新しい教室から見る外の景色は一段高い。割り当てられた机は古めかしいものの、足の部分ががたついていない分だけ幸いだった。大阪の中でもかなり古くに創立されたこの学校の中ではそれは恵まれた話で、さらには親友も財前も同じ教室の中にいてくれる。それだけで妙な高揚感が湧いてきてしまうのは単純だろうか。教壇に近い前方の席からは財前の姿は視界に収められなかったが、一緒の空間にいられるというだけで今までになく幸せを感じる始業式の日だった。
 ただ、同じクラスになったとはいえ相変わらず話す頻度は高くない。幸か不幸か、携帯電話一つで言葉が交わせる時代である。そして1学期の間に席替えは何度かあったが、一度も近くにならない籤運に財前の方が笑っていた。

「あいつとの方が近いんやけど、俺。なんでやねん」

 だらしなく頬杖をつきながら、けれど左手はさらさらと問題集を解いてしまう。テニスラケットばかり握っているように見えて相変わらず得意の英語の力は衰えていない財前の呟きを耳に、淡々と問題集を解くその横顔を目に焼きつけながら、は笑った。

「せやから私、光くんのこと結構教えてもらえるんやで。この前の地学の時間に寝てたとか」
「は? あいつ古典の時間めっちゃ寝とるやんか。もやけど」
「私は寝てへんよ、うとうとしてただけ!」
「一緒やん」
「それは……5時間目に古典をする方が無理ちゃう? ていうか古典の時光くんも寝てるやん」

 地学かて午後やと今度は財前に笑われる。期末テスト1週間前をきった土曜日の午後、財前の部屋でテスト勉強をするのは1年の3学期から始まった習慣だったが、今年は会話の中身がまるで違う。お互いが視界に映る空間の中で過ごしてきた授業中の振り返りをするということは、自然と会話の中身も勉強から逸れてしまうことが多い。それが不思議なほど幸せなことだということに気づいてからは、テスト勉強ですら苦にならなくなった。
 財前の家を訪れることになった時、最初は断ろうかと思った。財前の家族から見て自分がどのように映るのか、どう思われるのかまるで自信がなかったからだ。しかし財前は何も気にせず、「全員出かけるし」とあっさりとその不安を取っ払い、そして半ば強引に連れてこられた家には確かに誰もいなかった。偶然かと思ったものの、用意されていたお茶とお菓子は明らかに女性の手によるもので、後日偶然出会った義姉に慌てながらお礼を言うと手厚すぎる歓迎をされて逆にが笑ってしまった。財前はその横で微妙な顔をしていたが。

「せやけど私、古典で光くんに負けたことないからね」
「英語で俺に勝ったことないやつに言われても」
「それは光くんの得意科目やし。なんで英語だけ無駄にできる……」
「無駄ってなんやねん、集中型って言うんやこういうのは」
「へええ」
「テニス応援する気があるんやったら、ほら。それ貸して。期末テスト悪いと部長にどやされんねん」

 いつの間にか解き終わっていた英語の問題集を机の下に置くと、財前はに手を差し出しての片隅に積まれたノートを要求した。高校生になっても相変わらず彼の言葉の端々に登場するテニス部員はどこか懐かしく、そして白石にだけは妙に従順な財前がおかしくて、は笑いながら現代文のノートを差し出す。渡そうとした時、ふいに左手に光る指輪に財前もも目が留まった。

「学校にはつけていかへんの? それ」

 ノートを受け取るはずだった財前の左手が、そのままの左手に触れる。慌てて手を引っ込めようとするとその考えすら見抜かれて、当然のように手を握られた。日々ラケットを握りしめるその手はとは比べ物にならないほど節々がしっかりとしていて、細身の体型からは想像できないほど無骨だ。少しの力でこちらの自由など簡単に奪われてしまう。頬杖をついた姿勢は変えないまま、左手を握ってじっとこちらを見つめる財前の視線には曖昧に笑い返すことしかできない。

「学校は……ちょっと、駄目かなって」
「それやったら俺のピアスの方が駄目やろ。俺注意されたことないで。金太郎なんか相変わらず制服着てへんし」
「テニス部やから?」
「うちの高校だからやろ。指輪なんか誰でもしとるし、別に」

 始業式の日の、金色のため息の混ざった言葉が耳の奥に蘇る。あの時、金色はどのような気持ちでため息をついたのか。考えようとした矢先に唇を奪われてしまったうえに、続かなかった財前の言葉の意味を考えようとしたらラグの上に押し倒されてしまってその願いは叶わなかった。
 首筋に触れる財前の黒髪は、遠くで見ているよりもずっと繊細だ。水に濡れると少しだけ癖毛になるのを本人は嫌がるが、けれど生まれ持った細くて柔らかい髪質は肌に触れると心地よい。まだ明るい部屋の外を眺めていると左手を握りしめられ、もう一度唇を重ねられ、考えることを止められた。ベッドに軽々と運ばれるその感覚に酔うことは、嫌いではなかった。
 


 余裕の表情で90点台の英語のテストを見せつけられたのは一昨日のことだ。お返しとばかりにも80点台の古典のテストを見せつけると、それよりも1点高いテストを堂々と目の前に提示されて、反論ができなかった。
 無事に白石の査定を乗り越えたらしい財前は、再びテニス漬けの毎日に戻っていった。1学期が終了するまでという短い期間ながら、初めて財前の近くへの席替えが叶った7月、けれどテニス部は地区の予選大会が始まって土日に限らず平日も学校を抜けて試合に出かけることが多くなっていた。

「財前、今日も試合行くんか?」
「まあ」
「ええなあ、俺も学校さぼりたいわ」
「さぼるわけちゃうし」

 淡々と繰り広げられるクラスメイトとの会話を、財前の斜め後ろの席から耳を大きくして盗み聞く。あまりに真剣な表情をして聞き耳を立てているものだから、購買部で買っていた紙パックのマスカットティーを飲みながら親友はの額を軽く指で叩いた。

「いたっ」
「なんで彼女がこそこそすんねん。ていうか知っとるやろ、いつ試合があるとか」
「そうやけど」
「知られたないくせに独占欲だけ強くなるとめんどいで」

 親友が言い終わるよりも早く、財前は教室を出て行ってしまった。確かに今日は午後から予選の続きがあること、その後学校に戻ってくることも教えられている。けれど携帯電話の画面越し、機械的な文字だけで教えられるそれと、生身の声から響くそれとはまるで心への届き方が違う。中学生の時よりも若干低くなった声は耳に心地よい響きがあって、同じクラスになってしまってからはますます聞いていたい欲求だけが強くなっている気がした。
 そんなの心の内など手に取るように分かるのだろう、そして財前に関しても(不本意ながら)詳しくなってしまったのだろう親友は、大げさにため息をついたあと机の上に出していたと自分の弁当箱を無言で片づけ始めた。

「え、なに? まだ食べてへんのに」
「私は優しいから。めっちゃええ場所知ってんねん」

 そして半ば強引に連れ出されたのは、特別教室が入っている西館の外階段だった。校舎の東側に備え付けられた外階段は日差しも避けられるうえに吹き抜ける夏風が心地よい。わりと大きめに作られているため、階段は外での昼食を楽しむ椅子の代役を簡単にこなしてくれていた。
 どうしてここに、と問いかける暇もなく座らされると、視界の隅に正門が映る。そしてそこには、普段見慣れない貸し切りバスと、いつも遠くから見ているテニス部のジャージ姿があった。

「まあ、あの中におると財前はそりなりには見えるかもね。私は断然白石先輩やけど」
「それなりって。それなりに強いんやけど、光くん」
「それ褒めてんの? やっぱ白石先輩の勝ちやん」

 苦笑する親友とともに、昼食を取りながらテニス部員が集まるのを見つめる。財前はまだ到着していないようだった。眩い髪色がこれでもかというほど揃っている男子テニス部の中では、財前の黒髪は逆に目立つ。金色や一氏の姿は遠目にも確認できたが、何度探しても財前の姿はない。
 そんな探し求める姿を親友はまた笑って「本人の前でそうすればええのに」と言うと、昼食を食べ終わった後先に教室へと戻っていった。一人残された、誰にも心の中を覗かれない場所では財前の姿が視界に映るのを待つ。しかしそれよりも先に、携帯電話のデジタル時計が昼休みの終わりが近づいていることを示してくる。小さな出会いの時間も奪われたことに思いのほか悲しくなりながら、階段を下りていくとそこに財前の姿はあった。

「なにしてんの、そんなとこで」

 財前の方が驚いて足を止める。思えば西館は部室棟と正門の真ん中に位置していた、財前が目の前を通過するのは必然だった。しかしそのタイミングで目の前に現れてくれたことにが思わず顔を輝かせてしまったので、財前は珍しく慌てて階段の壁の中に隠れるように指示をする。正門の方向からは、金色と一氏の声が響き渡っている。

「なにしてんの、だから」
「え? うん、光くんが出かけるの見られるかなって。待ってた」

 階段の壁に二人で隠れて座ると、財前が小声で尋ねてきた。弁当箱を抱えるように、一段下の階段に座った財前を覗き込むようにしても小声で答えると、しばらく財前は黙った後先ほどの親友と同じように夕歌の額を指で叩いた。

「いたっ」
「別に帰ってくるし。先輩らに見つかった方がめんどいし」
「駄目やった?」
「駄目とかちゃうけど」

 遠くに財前を探す金色の声を聞きながら、財前は黙って頭をかく。多弁ではないことは分かっていたが、いつも以上に言葉を探している空気がそこにはあって、試合前に言葉を交わしたのは間違いだったのかとは慌てて謝った。するとあの左手が、止めを乞うように手のひらをに向ける。

「……光くん?」
「いや、ええねん。別に。ええねんけど、驚いただけで」

 もしかしたら、それは彼なりに精一杯の照れ隠しだったのかもしれない。部活では照れる暇もないほど上級生に好きなように扱われている彼が、自分の言葉を待ってくれる人が相手だと感情の扱い方に困り果てている。それは言葉少なな財前らしい反応と言えばその通りで、むしろ沈黙の時間が長ければ長いほど、彼の心の中ではうまく言葉にできない様々な感情が忙しく動いているのだろうと分かるようになった。は財前をもう一度覗く。遠くで財前を呼ぶ金色の声はますます大きくなるばかり。

「もう行く? 小春先輩に見つかるよ」

 笑いながら人差し指で、軽く肩を三回。叩けば財前は少しだけ不機嫌そうな顔をしてを見つめて立ち上がった後、大きくため息をついた。そしてそっと小声で呟いたのだ。

「行ってらっしゃいは?」

 校舎脇の階段で、人目はない。正門からも財前の姿は見えるか見えないかのぎりぎりのところで、の存在には金色も気づいていないだろう。しかしそれにしてもそのテニス部の服装は目立つのだということを、この人は一向に理解してくれない。そしてそんな態度に自分が眩暈を覚えそうなほど恋い慕っていることを、全く配慮してくれない。当たり前のように自分の魅力をひけらかしているとしか思えない。
 階段の二段目に腰かけたと目の高さが揃うように、しゃがみこんで。大きなテニスバッグが地面についてしまうことも厭わず、頬杖をついて真っ直ぐにを見つめてくる。本気で言っているのかとしばらく黙ってみたが、一向に正門に向かいそうにない財前を見ては諦め、周囲に人の気配がないことを確認してから一度下唇をかみしめてそっと財前の左頬に口づけた。

「ええ……。口とちゃうのこういう時は」
「恥ずかしいよ」
「はいやり直し」
「恥ずかしいって言うてるのに!」

 要求ばかりしてくるその性格はなんとか改まらないものか、と一段だけ上に座る場所を変えると、財前はむすっとして立ち上がり、大きなため息をついてみせる。
 呆れられたか、と怖くなってが顔を上げた時、財前は当たり前のようにの腕を引っ張って、勝手に唇を奪っていった。

「行ってくるわ」

 嬉しさと恥ずかしさのどちらを優先したらいいのか分からず言葉が出ない。そんなの態度は予想済だったのか、財前はさして慌てることも気遣ってくれることもなく、ただ頭を撫でてバスの待つ正門へと去っていった。そんなところで何をしていると大声で問いかける一氏に、たった一言「猫」と言った財前の声だけが耳に響く。
 階段に残されたまま、はしばらく弁当箱を抱えるようにして座り込んでいた。昼休みの終了を告げる予鈴が鳴り響くまでそうしていたのだから、財前という男は本当に自分の生活を振り乱すことしか考えていない。そして振り回されることに慣れてしまっている自分は情けないの一言だ。

(……でも、喜んでるのもばれてるんやろなあ)

 財前の前で自分の隠し事というものは成り立つのだろうか。振り回されるままでいいのだろうか。嬉しさと妙な不安とが交互に顔を出す心の忙しさにため息をつきたくなりながら教室へと戻る途中、渡り廊下から正門方向を眺めていた女子たちの会話が耳に入ってきた。

「知らんかったー、財前ってレギュラー取れるぐらいテニス強かったんや。意外」
「中学から一緒やったら知ってるけど、まあ最初は誰も信じようとせえへんよ。彼女がおるとか」
「ええ、彼女? 誰、知らんかった」
「ええと、3組のなあ」

 そこまで聞こえて、は慌てて廊下を渡り切って教室へと逃げ込んだ。5時間目の宿題を解いていた親友がの慌てぶりに目を丸くしていたが、教師が来るまでにかいつまんで説明をすると、同情されるどころかやはり呆れられた。

「いつまで同じ話してんの、あんたたちは。何のための指輪やねん。財前が自分の印つけたがってるんやら、つけさせたればええのに」

 正論にもちろん反論などできず、小さく頷いて5時間目の授業に備える。斜め前の席に座る人はもういない。ぽっかりと空いてしまったその空間に、教師からは自分が丸見えになってしまうことに気づいては慌てて真面目に授業に取り組んでいる様子を演じた。
 財前とお揃いになっているシャープペンシルを動かしながら、今日のノートを写真で撮って後で送ろうと思いつく。そろそろ試合は始まるのだろうかと時計を見つめ、暑くないだろうかと青空を眺める。その時、制服の中でしゃらりと小さな金属の音が耳に届いた。
 それは、財前にも秘密にしていたネックレスだった。体育のない日だけそっと身に着けていた、指輪を通した小さなネックレスだった。

(光くんの印か)

 試験勉強の際に財前になぜ学校に着けてこないのか、尋ねられたその指輪はにとってはかけがえのない贈り物だった。普段滅多に感情を言葉に変換しない財前が用意したことに、全ての感情が込められている。それを大切にしないのは、確かに財前の気持ちを慮っていないのかもしれない。無理に言葉に出して全てを伝えてもらわなくとも、自分が気づいて先回りできるのであれば、それで関係が成り立つのであれば、自分はせめて財前の隠された気持ちに応えなくてはならないのではないだろうか。
 唇には、まだ先ほどの感覚が残っている。周りには気づかれない見えない印は、にだけ意識させるようにいくつも残されていく。それがもし、彼なりの独占欲の表れであり、自分の気持ちを慮ってその程度に留めてくれているものであるならば、自分も何か応えるものを用意すべきではないかと思うのは、難しいことではなかった。
 制服の上からネックレスに触れ、は意を決して5時間目終了のチャイムが鳴ると同時に指輪を外した。親友がにやつくのをよそに、教科書に触れる手に指輪がある違和感に動揺しながらも6時間目を終えて財前が帰ってくるのを待つ。そして夕方になる前に学校へと戻ってきたバスの中から降りてきた財前に、2年3組の教室からメッセージを送ればあっさりと了解した旨の返事が届けられた。
 制服に着替えた財前がのんびりと教室に戻ってきたのは、それから間もなくのこと。

「おかえりなさい、光くん」

 誰もいない教室では、途端財前は気が抜けたように触れてくる。の肩に頭を乗せて、眠たそうに一度だけ欠伸をする姿はクラスの誰も知らない。中学の時よりも大きくなった背中を撫でて労い、帰りを促すかのように眠たそうな顔を覗きこめばあっさりと左頬に見えない印を残されたのだけれど、もうそこで慌てる必要はなかった。
 光くん、とそっと呼びかける。財前は力の抜けた表情のまま顔を上げて、そして目の前に差し出されたの左手を見て目を丸くした。

「……なにしてんの」
「なに、って。だって光くんが用意してくれたから」

 たった一言と、左手と。それを見せるだけで財前は昼間のように頭をかき、しばらく黙った後の頭を撫でて、柔らかく抱きしめてくれた。何も言われなかったが、自分の体を包む温もりが間違いではなかったことを確かに教えてくれていた。
 財前のために何かできることがあるならば、自分はしてあげるべきだ。改めてそう思いながら、白石から呼び出しの電話を断り切れず、開き直った財前に無理やり正門へと一緒に連れていかれる。目ざとい金色は当然の如くの左手に気づいて満面の笑みを浮かべていたが、なぜかそれに気づいてしまった一氏がたった一言、

「お前ペアリングちゃったんか。なんでお前もつけてこーへんねん」

 それまで一言も指輪の秘密を暴露しようとしなかった白石と金色の顔色が変わることに、一氏はまるで気づかない。思いもつかない秘密話にが目を丸くしていると、財前が一氏に詰め寄るよりも早く白石と金色がの目の前に現れ、「恥ずかしかったんは光くんの方なのよ」とそっと教えてくれた。
 ピアスを平気で5つも開けている男が、指輪一つに躊躇していたとは思いもしない。むしろなぜ秘密にされていたのか分からない。ペアリングであることを知っていれば、もっと早く学校に指輪をつけてきていたかもしれないというのに。様々な文句が心の中で渦巻いていたが、それを言えなかった財前の心理を慮ることが大事だとは自分に言い聞かせる。黙っていたわけではない、言えなかっただけだ。きっと指輪は男子には繊細すぎる話題なのだ、そうに違いない。じっと財前を見つめながら綺麗な言葉を心の中で並べていると、図星だったのか財前は一氏を放って「帰ります」とだけ白石に叫んでとともに正門を抜ける。
 手を握られたまま、天王寺駅へ。夕方の雑踏の中を少し小走りになりながら、照れ隠しで言葉が出てこないであろう財前に、は笑ってそっと財前の顔を覗き込むようにして囁いた。

「光くんもつけてくれるんやったら、私、明日も学校でつけようかな」

 お前は彼女に甘すぎんねんと、一氏が呟いたとか呟いていないとか。翌朝昇降口で出くわした金色は、感動をちりばめた喜色満面で「ラケット持つと傷つくからつけたくなかったんよ」と左利きゆえの悩みをそっとに教えてくれた。
 胸の中が温かくも軽い、優しい気持ちに満たされながら夏の日差しに早くも照らされている教室にたどり着いて、財前の斜め後ろの席にそっと腰かける。早朝練習を終えたテニス部唯一の2年生レギュラーの左手には、暑さに辟易してレモンティーを飲み干す主人をよそに、朝陽の中で光り輝く指輪がはめられていた。



21/06/21