彩光 05

 亜麻色の髪は風に遊ばれることが嬉しいのだと言っているかのようだった。
 ふわふわとよく揺れる髪。最初の印象はそれだった。随分と明るい色だと妙な感動を覚えたのはしかし一瞬で、その隣に銀髪を見つけてしまっては亜麻色が特別扱いを受ける時代が一瞬で過ぎ去る。その後ろから坊主頭がひょいと覗いたことはさらに鮮烈な記憶になったが。

(すごい友達関係やなあ。全然タイプちゃうのに、仲ええんやろうか)

 顔も名前も知らない3人を見つめて、何度も瞬きをしたものだ。
 四天宝寺中学に進学することが当然として小学校時代を過ごして、それなりに余裕はあったはずだった。地区最大の包括量を誇るこの中学の入学式は、まるで地域の小学校が一夜にして吸収・統合されてしまったかのような印象を受ける。分かってはいたが、目の前に繰り広げられる今日からのクラスメイトたちの図というのは新鮮さを通り越してまるで画面の向こうの違う世界を見ているかのようだ。ここに自分が馴染む時がくるのだろうか、そんなことを思っては幾度となく辺りを見渡す。
 その時、視界に映ったのがその亜麻色の髪だった。
 先を見越して大きめのサイズで買われた制服。着るというよりは着られている、その表現があまりにもしっくりとくる小さな顔やすらっとした指先は、未来を暗示していたように思う。隣に常に並ぶのが白石のために彼ほどは注目されなくとも、その一部一部が他の男子よりももっとずっと繊細な線で描かれていることに気づくまで、はそう時間を必要としなかった。

「なあなあ、なんでお前がこっちの中学に入学するんや? お前南梅田小やろ、たしか」
「まあ、いろいろと。……って、俺お前のことよう知らへんのやけど。だれ?」
「忍足くん、あかんよ。自己紹介もせんと白石くんに声かけるなんて!」
「うわっ! なんやお前、お前の方こそ誰やねん!」

 実はその教室こそが初対面の場で、白石に対する勝手な面識だけを武器に話しかけにいった忍足を、羨ましさに負けてつい話に加わってしまった小春が知って、そしてふたりに囲まれた白石は一度手合わせをしただけでふたりのテニスの腕を知った。
 それ以来3年間、あの3人はクラスが離れても親友の空気を壊すことがない。
 それが忍足だと、はそれが忍足の最たる魅力だと思っていた。

「だってすごくない? あんな誰とでも話せるやなんて。羨ましいわ、ていうかすごいわ。真面目なんよ、きっと」
「それを買いかぶりすぎと言うんやけどね、世の中では」
「ちゃうし。せやったら忍足くんの様子見てよ、絶対すごいなあて思うところがあるから」
「嫌やわ、そんなん。忍足のことが好きみたいやんか」

 自発的に動くことのできる忍足が羨ましいと思ったのは、そういうところからかもしれない。
 親友が初めて言葉に出した恋愛感情に、は一瞬箸を持っていた手を止める。周囲の喧騒に気づかぬふりをして、呆然と目の前の親友だけを見つめる。
 の反応に、相手が逆に目を丸くした。

「……なに、まさか本気で気づいてへんかったとか、そういうことは」
「気づいてへんかった」
「言わんでええって!」

 秋の食堂に親友の声が響いたのは、今から2年前のこと。
 ふと思い出しては顔を上げる。なぜ唐突に昔のことを思い出したのだろうと周りに視線を向ければ、あたりの空気はどこか2年前と同じような錯覚に陥る。外は冬、もはや秋の香りなど1年という長い時を経なければ味わうことなどできなくなってしまっているのに。
 親友のたわいない会話に耳を傾けながら、ふと視線が止まる。

「アホか、なんやねんそのオチは! しかもなんやその問いかけ、その視線! お前ほんま最悪や、振られても知らへんで!」

 聞き慣れた声が怒号を発するまで、そう時間は必要としなかった。
 ああ、あの空気ではいずれ怒り出すだろう。そうぼんやりと忍足の姿を見つめていれば、予想に反せず飛び出した怒鳴り声。怒鳴るというよりもからかわれる空気に反抗するという表現の方が正しいのだが、微笑ましくもあるその光景をしばらくは見ていたい。だから忍足にはまだ伝えていなかった。

(謙也くんはみんなから好かれとるなあ。ええ人)

 思わず口元を綻ばせば、親友の目が目ざとくその変化の原因を見つけてつまらなさそうに瞬きをする。

の忍足自慢なら聞かへんで。聞き飽きたっちゅーか、忍足なんか自慢されても」
「なんか、ってなに。なんかって」
「あの忍足やで。あの。別に特別扱いするようなもんはないやろ? ……あの中では」

 視線の先には、言い合いを続けながらトレイを片付けにいく男子テニス部の姿がある。正確には元テニス部と現テニス部の入り混じった集団だが、この学校にいて彼らのことを知らない人間は驕りに近い。全員が全員個性派という言葉を都合よく使っているとは忍足の言葉だが、そんな忍足すら小石川に言わせると同類でしかないらしい。

「別に、特別扱いなんかせんでもええやん。そんなことがしたくて好きになったんとちゃうし」
「それはそうやけど。せやかて、あいつしか見いひんのも問題やと思うで」

 カラカラと親友は笑う。言い返す言葉がないのを見透かされているのだ。ぐっと言葉につまると、また笑われてしまった。

「まあ、私は。がいつからあいつを好きやったんか知っとるからからかえるんやけど」

 ふわりと目の角度が優しくなる。ドアから出て行こうとするこんな時にもなにか大声をあげている彼らを見送り、結びつけるかのようにに視線を戻す。
 また言い返す言葉がなくて、は押し黙ったまま食事を続ける。
 なぜだろう、今日という日はとても思い出の海が穏やかで、温かかった。

(謙也くんは、私がいつから謙也くんのことを好きやったんか知らへんやろなあ)

 始まりは1年生の教室だった。
 テニス以外にも、と言うよりはほぼ全てにおいて無駄なくそつなくこなしていく白石、ずば抜けた頭脳と巧みな話術から繰り広げられる笑いのセンスを惜しげもなく披露し続ける小春、そんな彼らと行動をともにする忍足にだけ視線を向けるようになったのは教室からだった。
 同じ空間にいなければ、彼らが互いをどう思っているかの空気は絶対に読み取れなかったと、今でもは思っている。

「いい子の忍足くーん。高槻先生がお呼びでーす。至急俺らの教科書と一緒に理科室に来てくださーい」
「なあ、お前ら。それ知っとるか。それな、いじわるっちゅーやつなんやで」
「まあっ、ケンヤくんの口から『意地悪』やなんて! そないなつもりまったくあらへんのに、ねえ蔵リン」
「なあ。高槻先生が呼んどるっちゅーだけやないか。俺らの持ち物持って理科室においでー、おいでー忍足くんって。ほら、聞こえるやろ」
「アホか! こうしてやる!」
「なにしとんねん、捨てんなや!」

 周囲は皆、白石と小春にばかり注目した。目を奪う存在感や言動が優れているのではない、多いだけだ。だから忍足はその次、となるけれど、は違った。

(あのふたりがいっつもおるの、忍足くんだけやんか。すごいことやと思うんやけどなあ)

 ほぼ怒鳴り声をあげるのが忍足の役割というか、白石や小春の考える話の流れに常に乗らされているのが彼であったが、それでも白石たちが離れない。忍足も離れない。ふと気づいた時には白石が忍足の何気ない話にいたって真剣に耳を傾けている光景がある。その瞬間の忍足がなにか特別なことをしているのではないのに、白石の目がきちんと切り替わるのだ。
 忍足の本当の位置づけに気づいている人間は、絶対に彼を嫌えない。いや、好きになる。

(私、知ってるんやから。みんながどれだけ謙也くんのこと大切に思ってくれてとるかって)

 日々の時間は、確信のためだけに流れているかのようだった。
 教室の中で忍足を見つめる機会が増える事実に、身体がついていかない。いや、身体が動くから心がそれに従って生きているような感覚だが、それが時間の経過とともに身体の中にしみこみ、まるでそれが行動規範であるかのような毎日が流れる。
 だが、それが嫌ではない。時間が経てば経つほど、自分は忍足を好きになって仕方がないのだ。おかしなほど自分の手に負えなくて、笑いたくなるほど忍足を好きでいられることが嬉しくなってしまうのだ。
 そんな毎日の中で、あの日は突然訪れた。

「お前、アホちゃうか。それ絶対時間かかるだけやろ」

 その予定はなかった。忍足の声が自分にだけ向けられる、その予定はまるでなかった。
 自分が忍足の声を聞き間違えるはずなどない。けれど話しかけられる自信はない。意味が分からない、これは本当かという思いで振り返ったそこには、制服と同じように大きめの体操服を若干持て余している雰囲気の忍足が、不思議そうな目でこちら見ていた。
 偶然近くにいたからという理由で片付けの係りを任され、正直どうしたものか悩んだものの仕方ないと諦めて、ハードルに手を伸ばした、それはまさにその瞬間。
 その中途半端な姿とハードルを何度も交互に見て、忍足はやがてため息をつく。

「男子やなくても、誰かと運べばええんちゃうの。……ちゅーかもうええ、俺手伝う。おーい、白石! お前も手伝え!」
「なんや、先生も薄情やなあ。なんで男女合同の時に女子にだけ片付けさせとるんや」
「忘れとったんとちゃうか。それか小春に頭ん中全部もってかれたんや」
「はは、それええなあ。今日のMVPは小春やな」

 白石が素直に忍足の言葉に従い、ハードルを運び始める。颯爽と手にする白石と、とにかく多く運ぼうとする忍足の行動が対照的で思わず笑いをこらえてしまったが、

(……あ。右手、使わんようにしとるんや。白石くんの真似するんや)

 白石が左手を決して無理して使わないようにしている姿は何度も見てきたが、忍足もそのようにするのを見るのはこれが初めてだった。白石の行動を見て慌てて直したという印象が強かったが、しかし素直に白石に従う忍足の後ろ姿に、やはり自分の気持ちは間違っていなかったとは確信する。

(こんなええ人おらんよ、絶対。こんな素直な男子、他におらんやんか)

 途中参加した小春にいくつかハードルを預けると、の周りにはハードルが1つしか残らなかった。慌ててそれを持って忍足の背中を小走りで追い、は顔を上げる。

「忍足くん、ありがとう」

 目が幾度か瞬かれた。何も珍しいことなどしたつもりはなかったのだが、どうやら頭の中で何度もその言葉を反芻させていたらしい。別に、と少々戸惑った返事を耳にするまでの間に体育倉庫までの距離はどんどんと短くなる。

「そういえば……」
「え?」

 たどりついた体育倉庫で、白石と小春は早々に引き上げてしまった。最後の片付けをすべて忍足に押し付けて。忍足は不機嫌そうな顔をしながらも、の手から最後のハードルを受け取って丁寧に並べ終える。
 倉庫から離れる直前の白石の視線は、まるで未来を暗示しているかのように色々なものを含んでいたけれど、けれどは目の前の忍足を見つめるのに必死だった。
 白石とは対照的に、まるでの視線の意味に気づかない忍足はいつのまにか不機嫌と別れ、いつもの様子で片付ける。あ、と小さく呟いた頃、の視界も外界のものに切り替わった。

と話すの、これが初めてやな。小学校ちゃうし。せやけど、同じクラスなんやから話さん方がおかしいか。なんかあったらちゃんと言えよ、お前言えなそうやし」

 それがなければ、自分は忍足をもっと描かれた型どおりの恋愛感情でしか見ることができなかったかもしれない。
 は唖然として言葉をなくす。まさか忍足の口から、自分をどのように見ているかなどとということを聞くことがでる日が来るとは思ってもみなかった。

「まあ、今はハードル持つぐらいしかできへんかったけど。せやけど案外いいやつ多いと思うで、うちのクラス」

 唇をきつく閉じる。耳を傾けたい一心だ。
 誰にでも優しく接することができる忍足が、自分を見てくれている瞬間を余すことなく感じていたい一心だ。
 その心は本音を伝えていない以上決して忍足に伝わることもなく、なにも言わなくなったを忍足は一瞬気まずそうに見つめた。なにか間違えたかと思ったらしいが、それを訂正しようとが慌てて口を開くよりも先に、彼は白石のもとへと駆け寄っていってしまった。
 好きだな、と心の中で呟く。好きであればなにが叶うのかもなにを諦めなければいけないのかも分からない、そんな経験などしたことがない。けれど忍足の素直さや優しさに触れて、好きにならない方がおかしいと身体全体が理解している。だから心もその中で動く。
 声をかけることは、勇気が必要だった。
 話すことは、緊張と戦わなければならなかった。
 けれどその後、自分との一瞬一瞬を忍足は決して粗末には扱わなかった。それこそ白石や小春たちに対するのと同様に、時には笑ったり時には怒ったり、その関係を自分にも向けてくれていた。
 それがいつまでも変わらない忍足が、は本当にすごいという言葉以外で表現できなくなっていった。

「ありがとう、忍足くん」

 ある日呟いた言葉に、忍足は目を丸くした。
 付き合ってくれたこと、常に同じ態度で接してくれること、時折、ほんの時折自分にだけ甘い行動を取ってくれること。その感謝の気持ちの対象はいくらでもあって、忍足の疑問符に対する答えは用意はできない。
 それは、付き合った瞬間も同じだった。付き合うことになった時同じように呟いた感謝の言葉に、忍足は意味が分からないという顔を素直にした。感謝の対象となる行動を自分がとっていることにまるで気づいていないと、その顔には常に書いてある。
 けれど、とは口元を緩める。

「3年間、好きでいさせてくれてありがとう。忍足くんみたいなええ人と一緒におられるだけで、私、嬉しかった」

 恋愛は本来、違うものなのかもしれない。いや違うものだと親友にはよく諭される。
 しかし白石は一度だけ「羨ましいけどな」と呟いた。1年の時は同じクラスだったとはいえ、積極的に話しかけにいく関係を彼とは築かなかったため今でもあまり接点が多いとは言えない。そんな彼が唯一と言っていいだろう自分にだけ呟いた言葉は、なによりの自信になったし、

「ねえ、さん。今日はアタシ、さんを褒め称えてええかしら」

 小春の言葉は、3年という時の流れが決して無駄ではなかったことを教えてくれた。
 秋が過ぎ、冬になる。正確には今からが3年目の関係になる。時間が流れた分だけなにかが成長していなければならないと誰かは言うが、ともに過ごす時間がこれだけ積み重ねられたそのことをもっと嬉しがっていいとは思う。

「褒め称えるって、なに? 私なんもしてへんけどなあ」
「そうね、なんもしてへん。それよ、それなのよ」
「え?」
「おるだけで大切って、そう気づかせてくれる人なんかそうおらんわけよ。光くんも蔵リンもなんや自分がなんかをせんととか考えることがあるんやけどね、そんなもんアタシからすればさんとケンヤくんを見習えない段階で負けって思うわけ」
「……そうかなあ?」

 そうよ、と小春が強く頷く。そうか、とは笑う。
 その笑みを見て小春は嬉しそうに微笑んだ。

「1年から3年まで、その長い間一緒に過ごすことができたことの意味は、まだケンヤくんは全部は理解してへんけど。でも、気づこうとしてくれるええ人やから。せやからさんには、今のケンヤくんを大事にしてほしいって思うわけ。……あら、アタシ今日ちょっとええ人かしら!」

 小春は常にいい人だと、誰よりも周囲の人間を見ている人だと伝える。本当は今この瞬間も自分と忍足のために作ってくれていることに気づけば、小春の存在がどれほど彼らにとって大切かということを悟らないわけにはいかない。
 は小春に笑い返し、小さく頷いた。

「私、謙也くんのこと好き以外で見ることできへんと思うから。どんだけ時間が経っても、私がどんなんになっても謙也くんがどんなんになっても、好きでいたいと思うからなあ。……私、ダメかな。視野が狭いってよう言われるんやけど」

 苦笑とともにした言葉に、小春は首を横に振る。

「そう思う心を持つ人の方が少ないから、アタシはさんが合っていると思うわ」
「そう?」
「そうよ。人間、小さな自己保身の心に負けてしまえば人を心から好きになることなんか後手になるもの。他人を好きになるってそういうことやと思うわ」

 小春の言葉が胸にしみこんで、冬の風すら暖かく感じてしまう。
 時間が流れたその分なにかが成長したかは分からない。けれど流れた時間の分心が幸せであったことは他の誰でもない自分が確かに知っている。
 そして忍足も、気づいてくれているはずなのだ。
 小春と別れ、自分の教室へと戻ろうと3年2組の前の廊下を通る。
 こちらに気づいた忍足が軽く手を上げ、その行動を見守る白石がまいったというように笑う。その関係がいつまでも壊れないように、そう願う心は楽しくて嬉しくて、は廊下を過ぎ去ったあと携帯電話を取り出してひとつのメールを打つ。

『俺かて好きやっちゅーの』

 すぐに届けられた返信には、白石が笑っているように見えた。小春が微笑んでくれているように見えた。



10/04/29再録